森喜朗回顧録 私の履歴書 森喜朗

2013年6月3日1版1刷

 

目次

1 故郷・ラグビー早大雄弁会

2 政治家をめざして

3 福田赳夫氏とともに

4 安倍派四天王・政権交代

5 首相となる

6 首相退陣後

 

昭和12年7月14日石川県能美市生まれ。金沢二水高校でラグビーを始め、キャプテンになり、北陸大会決勝で敗れたために全国大会出場を逃した。早大商学部に入学しラグビー部の門をたたいたが、ついて行けず4か月でラグビーをやめる決心をした。1年の終わり頃雄弁会に入り、元気を取り戻した。卒業後産経新聞に入社した。結婚後共働きをした。愛媛の井関農機を取材すると、社長が今松治郎代議士と小学校同級生で、産経をやめて今松代議士の秘書となった。今橋の落選・死去で無職となる。自民党の公認を得られずも、32歳でトップ当選を果たす。当選後追加公認料200万円と貸付金300万円を受け取る。盆暮れの党から配られた氷代・餅代とは別に安倍晋太郎先生は自分の分を封も切らずに渡してくれた。田中、三木の後に福田内閣が誕生し、国対副委員長になる。内閣改造官房副長官に就任。福田首相は日中平和友好条約の締結を決断。大平派と福田派で分裂の危機に陥ったが大平首相急死の衝撃で分裂の危機は回避された。中曽根内閣で文相として初入閣。リクルート事件の時に株式は売却せず保有し続けていたので濡れ手で粟との批判は当たらないのにリクルート議員と決めつけられた。竹下退陣の後、短期の宇野首相を経て、海部首相・小沢幹事長時代に衆議院運営委員長に回された。安倍が亡くなり、安倍派の後継は三塚博さんとなり、私は会長代行になった。宮沢内閣で三塚派外しの工作が行われた(小沢)が、政調会になり党三役に初めて入った。内閣改造通産省に入ったが、自民党が野党に転落した。竹下派小渕派と小沢派に分裂し、小沢が党を飛び出し、河野総裁・森幹事長体制となった。政治改革法成立後(人気絶頂の細川内閣で解散を封じ込め)、細川首相の資金問題に的を絞ると、細川さんは政権を放り出し、社会党・さきがけが連立離脱すると、自民・社会・さきがけ連立政権が発足した。立役者は亀井静香さん。村山内閣改造で建設相ポストに回った後、自民党単独政権に返り咲くと総務会長に就任した。橋本首相の後継首相には小渕さんが選出された。小渕首相の下で再び幹事長になった。三塚さんの後を継いで清和会の会長に就任。自自、自自公の流れで小沢さんが連立離脱し、小渕総理が倒れた。両院議員総会で総裁となったもので、密室談合で選ばれた首相との批判は当たらない。沖縄サミットを成功裡に終え、ブレーンに竹中平蔵教授、村井純教授、牛尾治朗会長に入ってもらった。メディアからの批判を浴び、潮時と考えて、小泉さんが就任したので、清和会会長に復帰し、小泉さんの後見役のような役回りになった。小泉さんから安倍さんに交代したのを機に、清和会会長を退任し、後任は町村信孝さんがなった。小沢さんが大連立を持ち掛けてきた。伊吹文明幹事長も消費税をやるためだと言って説得したが、小沢さんが民主党に持ち帰ると大反対にあい、ご破算になった。平成15年、AU議連の設立を呼びかけ、第3回アフリカ開発会議で議長を務めた。アフリカ問題には引き続き力を尽くすつもりである。日印協会会長を務め、プーチンとの個人的な友情関係を築いてきた。日本体育協会会長、ラグビー協会会長のほか、2020東京五輪招致はこの招致委員会の各界応援団の評議会議長として成功させたい。

 

陽炎の門 葉室麟

2016年4月15日第1刷発行

 

裏表紙「下士上がりで執政に昇り詰めた桐谷主水。執政となり初登城した日から、忌まわしい事件が蒸し返され、人生は暗転する。己は友を見捨て出世した卑怯者なのか。自らの手で介錯した親友の息子が仇討ちに現れて窮地に至る主水。事件の鍵となる不可解な落書の真相とは―武士の挫折と再生を切々と訴える傑作。」

 

豊後鶴ヶ江六万石の黒島藩(架空の藩)は黒島興正を藩祖とする。他の作品「山月庵茶会記」「紫匂う」にも黒島藩は登場する。家禄五十石の家に生まれた桐谷主水は、両親を亡くし、天涯孤独の身だが、37歳の若さで黒島藩の執政の一人に推挙された。執政会議の開始前、芳村綱四郎の切腹と後世河原騒動が話題になった。主水は眉尻に傷がある。主水はこの傷を無意識に触るのが癖だった。会議が始まり、藩主からその癖を直すよう言われた。この傷は主水が17歳の時、後世河原騒動の際に負ったものだった。城下の直心影流諸井道場と浅山一伝流荒川道場に通う藩士の子弟が人をかき集めて二十数人で決闘騒ぎを起こし、それを聞きつけた主水と綱四郎は止めに入ったが、死人が2人、腕を斬り落とされる等、ひどい怪我をした者もいた。綱四郎は藩主を誹謗する落書を書いた咎めを受けた。「佞臣ヲ寵スル暗君ナリ」が綱四郎の筆跡と主水が証言したのが決め手となり、綱四郎は切腹を命じられ、綱四郎の希望で主水が介錯を務めた。10年前のことである。この一件は主水の心に傷跡を残し、鋼四郎への負い目となった。主水は綱四郎の遺児・娘由布を親子ほどの年齢差がありながら妻として迎えた。由布の弟芳村喬之助は父の敵討ちを藩に願い出た。主水は家老の尾石平兵衛に呼び出され、家老の執務室で町奉行の大崎伝五から「芳村綱四郎ハ冤罪也、桐谷主水ノ謀也」と記された書状を見せられた。綱四郎の筆跡と同じ筆跡で書かれ、末尾に別の筆跡で「百足」と記されていた。執政になった翌日、主水は己の証言が正しかったことを証明しなければならなくなった。喬之助は剣術の師匠直心影流貫井鉄心の供をする形で兄弟子竹井辰蔵と一緒に三か月後に戻って来る。その間に主水は何があったか明らかにする必要があった。大崎伝五は主水には書状を託せないと言い、小姓組の早瀬与十郎に書状を託し、主水に同行させた。主水への監視役でもあった。主水は綱四郎と一緒に学んだ学塾の恩師孤竹先生を訪ねることから始めた。恩師は鋼四郎の筆跡であると言い、切腹事件と騒動に関連があるかのように言った。その恩師が直後に賊に襲われて絶命した。妻由布の行方が知れないがしばらくして由布から無事を知らせる手紙が届いた。恩師の妻に森脇監物に会うようにとの恩師の言付けを聞いた主水は監物に会いに向かった。途中で辰蔵が待ち構えていた。辰蔵と相打ちになった主水は監物の家に運ばれた。気が付くと由布が看病してくれていた。監物は意識を回復した主水に、早瀬与十郎がいる前でしか話をしないと言う。早瀬は次席家老の四男だった。騒動の際に腕を斬り落とされたのは家老の嫡男一蔵で、斬ったのは鋼四郎だった。早瀬は騒動で死人が出、兄の一蔵が何故に腕を斬り落とされるに至り、鋼四郎が切腹するに至ったのかという一連の顛末を主水に語った。監物から百足の正体は、臥龍亭を見ればわかると教えられた主水は登城して臥龍亭を訪れた。茶室にかけられた扁額に「百戦一足不去」とあり、署名は「曙山」とあった。曙山とは藩主黒島興世のことだった。主水が井沢泰輔から聞かされた百足の字は主水も見ているという意味を悟った。敵討ちの場は主水の希望が叶い後世河原となった。そこで藩主は、鋼四郎との約束を違え、これまでの自らの謀略を自身の口で語っている最中に城内では筆頭家老らが評議を行い、藩主押し込めを決めた。その藩主を主水が斬ろうとした時、主水に代わって討った者がいた。全ての事件は解決し、桐谷主水は三席家老、次いで次席家老となった。

 

私の履歴書 春日一幸

昭和47年9月28日発行

 

私の履歴書

・生まれは岐阜県長良川のほとり大字日原。高等小学校後、名古屋逓信講習所普通科を卒業し高須郵便局に逓信事務員として勤務。島田清次郎の「地上三部曲」を読んで文学の虫に取り憑かれ、ビリで卒業し、名古屋中央局に配属された。二十歳の時に林芙美子を訪ねて上京した。生田春月の「詩文学」を紹介され、逓信院と決別し、私の詩が「詩文学」に掲載された。詩壇の評論に高名だった伊福部隆輝氏からランクツーに据えて称賛された。実家から勘当され、上京して鎌倉に出て大仏次郎先生を訪ねたが不在だった。佐藤春夫さんのお宅も訪ねた。辻潤さんの宅へも月に1、2度訪ねた。覚王山の山奥で睡眠薬自殺を試みたが、百姓に発見されて病院に運び込まれ一命を取り留めた。通訳の手助けをしたことがきっかけで知り合った蓄音機の卸問屋の佐藤商会と交わりを重ねるようになった。貿易責任者として入店し、業績を伸ばしたが、全体で計算すると他の莫大な損失と帳消しにされ、独立し、メーター氏より資金援助を受けて名古屋市で春日楽器製造株式会社をスタートさせた。戦争突入後、佐藤氏と事業を合併させ、社名を名古屋楽器産業株式会社に変更した。昭和20年正月名古屋南部が焦土化した。戦後、市民大会に参加して開宴に先立ち挨拶をした。政治への想いが芽生え、地方選挙で当選した。露天商人たちを救ったり、保証協会の制度を実現したりした。当時、左派五月会に所属し、2期目は最高点で当選した。社会党は昭和26年に左右両派に分裂し、右派に所属した。昭和27年解散選挙で名古屋選挙区定数5で激戦区だったが当選した。当選を重ねる中、社会党の統一、自由党民主党との保守合同も達成され、2大政党体制が確立した。昭和35年民社党が結党され、国対委員長となった。11月の総選挙では民社党は現役40人が17名に激減した。中小企業のために民社中小企業政治連合(民中連)の喘息組織を結成した。昭和46年8月、西村委員長逝去のあとを受け党の委員長に就任した。前年11月訪米しキッシンジャー大統領補佐官国務長官と会談を重ね、委員長就任直後に王国権氏と会談した。

 

随想集

・娑婆の味放談 かねてから不動明王を信仰している。

・俺が浮き世のみちしるべ ◎障子を成し得ざる者いかで大事を‼ ◎自らを群盲の一人と悟るべし ◎言語は真言秘密の秘法なり ◎策謀はやめて、朴直に生きよ ◎頂上に大志を抱け ◎公人はもとより公事優先

恋愛至上主義で無病息災 色恋こそは衆愚凡夫の魂を岩清水のごとくに浄化する天然の装置である。私は英雄を尊恭する。ゆえに色事など慎んではいけないと思う。

・交遊のことあれこれ 鉄幹の詩「妻をめとらば才たけて みめ美しく情けあり 友を選ばば、書をよみて 六分の侠気、四分の熱」は上等の妻や友を目標においている。しかし巷にそんな美人や傑物はざらにいるものではない。

 

無双の花 葉室麟

2012年1月15日第1刷発行

 

帯封「武将立花宗茂の生涯 直木賞作家誕生!受賞第一作 秀吉はにこやかに宗茂に声をかけ、『その忠義鎮西一、剛勇また鎮西一』と激賞した。秀吉は宗茂をことのほか気に入って〈九州の一物〉と呼んだ。島津を降伏させた後、博多で九州の国割りを行うと、宗茂に柳川十三万二千石余りの領地を与えた。(本文より)」

 

秀吉は東国は本多忠勝、西国は立花宗茂、ともに無双の者であると讃えた。朝鮮出兵の際、宗茂は先鋒を務め、見事な活躍ぶりだった。関ヶ原で西軍に就いた立花家だったが、西軍の総大将毛利輝元は戦わず、小早川秀次が裏切る中、同じ西軍に属した鍋島が柳川を攻めようとしていた。黒田如水加藤清正が攻め寄せれば降伏して家康に所領安堵を願い出ることも考えたが、鍋島が来るならばそうはいかなかった。宗茂は鍋島勢12陣のうち9陣までは切り崩したが、10倍の大軍に囲まれ、籠城戦に切り替えた。鍋島勢が柳川城を包囲すると、清正の陣、如水の陣が続いて到着した。宗茂は降伏を申し出た。西軍に組した立花家は所領を取り上げられ、宗茂は浪人となった。宗茂を豊臣家に引き込み、打倒徳川を目指すようとした長宗我部盛親真田幸村宗茂を誘うが宗茂は応じない。家康に取り上げられるのをひたすら待ち続けた。長い時間がかかったが、ようやく家康に拝謁すると、家康は5千石を提示した。不足かと尋ねられた宗茂は一言も不満を口にしない。家康は宗茂の家臣の姿を見て、宗茂ありてこの家臣ありと感心した。間もなく禄高は1万石となり、陸奥棚倉藩へ移封となる。大阪冬の陣で秀忠側近として傍らに控え、家康の危ない行動を止めたり、地味に活躍し、夏の陣でも活躍した立花宗茂は、家康の信を得て家忠や世嗣の傍らを離れぬなと命じられ、人を裏切らない立花の義を世に知らせしめよと命じた。家康の死後、家康の遺言通り、秀忠より筑後柳川十一万石の再封を賜った。20年ぶりに九州に戻った宗茂は民からも慕われた。

 

大屋敦(日銀政策委員)私の履歴書 経済人7

昭和55年9月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

新門辰五郎の血もひく家系

開成中学から一高へ

逓信省に入り、二度の海外旅行

④住友で経営哲学を学ぶ

⑤硫安事業で苦労

⑥初の埋め立て地造成事業

⑦アルミニウム事業-言語に絶する技術者の努力

⑧日本のかくれた恩人のこと

原子力開発のお手伝い

⑩日本青年協会-中道を歩ませる目的

⑪精神力即健康を信じて

 

・祖父は大政奉還の奏上文を草案した人。父は大審院の判事だった。姉の孫が三島由紀夫尋常小学校2年の時、永井から大屋に変わった。開成中学後、一高の体格検査で不合格になり仙台二高で受験し、一高二部甲に入学した。東京帝大電気工学科卒業するまでの間、京阪電車会社で働き、卒業後逓信省電気局に奉職した。早大理工科で週1で教鞭もとった。8年後住友総本店に入社した。21年間の住友生活後、軽金属統制会長に就任。水力や窒素肥料に関わり、住友化学初代社長に就任した。アルミニウム事業は住友、軽金属統制会長として大いに関わった。正力松太郎大臣の肝入りでスタートした社団法人日本原子力産業会議の会長は菅礼之助さんで私は副会長の一人として今でも関係を続けている。財団法人日本青年協会では会長を引き受け、農村青年を対象に青年訓育に当たった。日本銀行の政策委員を務めて6年になる。東京ロータリークラブ会長を務めた。80歳に達した会員が11人いる。(昭和41年より住友ベークライト相談役。45年8月18日死去)

 

オランダ宿の娘 葉室麟

2020年10月15日発行

 

裏表紙「日本とオランダの懸け橋に。〈長崎屋〉の娘、るんと美鶴は、江戸参府の商館長が自分たちの宿に泊まるのを誇りにしていた。そんな二人が出逢った、日蘭の血をひく青年、丈吉。彼はかつて宿の危機を救った恩人の息子だった。姉妹は丈吉と心を深く通わせるが、船問屋での殺しの現場に居合わせた彼の身に危険がふりかかる……『シーボルト事件』などの史実を題材に、困難な中でも想いを貫いた姉妹の姿を描く歴史小説の傑作」

 

第一部

オランダ使節団の定宿で阿蘭陀宿“長崎屋”の主人源右衛門とオランダ通詞の沢助四郎は幼い頃からの友人だった。助四郎の息子駒次郞は4年前、現在のオランダ商館長カピタン(ヤン・コック・ブロムホフ)の江戸参府に伴って江戸に来て以来、長崎屋に逗留していた。源右衛門は18歳の駒次郎がるんと美鶴と親密であることに最近気を揉んでいた。ダップルという洋名を持つ鷹見十郎左衛門は天文、地理、動植物に至るまで蘭学の知識を吸収し、最近、妻の富貴のために良薬とされるテリアカを求めていた。入手が難しく明年来日するシーボルトなら手に入れることができるかも知れなかった。昔の長崎オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフには道富丈吉という息子がいて、長崎奉行所の唐物目利をしていた。丈吉はるんと美鶴に会うために長崎から江戸にやってきた。長崎屋に預けられている京都の阿蘭陀宿海老屋の三男坊の沢之助は、源右衛門がるんか美鶴の婿にと思って呼び寄せた男だったが、思いのほか遊びなれていた。テリアカのことを聞いた丈吉は、回船問屋会津屋が買い求めていたと言い、るんと美鶴、丈吉と沢之助は、回船問屋を訪ねた。会津屋が言うには、テリアカはスペインの通貨カルロス銀貨でしか手に入らず、カルロス銀貨は勘定奉行を務めた遠山左衛門尉景晋(かげみち)が持っているから、長崎屋から遠山にお願いするのがよいという。カルロス銀貨を手に入れた由来を説明して景晋はドゥーフの息子丈吉に銀貨を戻し、テリアカを3日後に入手することになった。丈吉とるん、駒次郎と沢之助が会津屋に着くと、番頭が殺されていた。丈吉が江戸にいることがばれるのはまずく、遠山にも迷惑をかけられないので、事件を届け出られなかった。番頭殺しの犯人は丈吉の懐からカルロス銀貨を掠め盗っていた。源右衛門は駒次郞や丈吉を長崎に帰した。抜け荷の疑いがある会津屋に関わること自体、大きな問題になりかねなかず、間もなくシーボルトが来日するからだった。るんは駒次郞に4年も会えないのが辛かった。美鶴は丈吉に4年後に会えるのが楽しみだった。

 

第二部

2年後、長崎・出島の三番蔵で、丈吉が死体で見つかった。死因は分からない。商館医のシーボルトが検屍し、心臓の発作のようだと言うが、近くにカルロス銀貨が落ちていた。番頭殺しの時にもその場にいた猿を丈吉の死体傍でも目撃した者がいた。2年前の会津屋での殺人事件と丈吉の死は関係があるのか否か。丈吉の死に不審を抱いた駒次郎の言葉からシーボルトも不審を抱いた。丈吉はシーボルトが阿蘭陀人でなくドイツ人であることを知っていた。猿を連れ歩いていたのは間宮林蔵シーボルトと面会した。江戸に参府するオランダ商館長スチュレルに同行してシーボルトは江戸に向かった。今度は大通詞が殺された。シーボルトは駒次郎に長崎に戻るのは危険だから江戸に残れと言った。駒次郎はシーボルトが長崎に戻った後も江戸に残り、シーボルトとの橋渡し役を務めることになった。るんは駒次郎が江戸に残ると聞いて喜んだ。駒次郎とるんは林蔵を訪ねた。林蔵は自らの樺太調査だけでなく、丈吉が国禁を犯す恐れありとして見張っていたこと、その延長で番頭殺しの現場にいたことや、遠山のために丈吉から銀貨を奪ったこと、そして丈吉が長崎に戻った後に銀貨を返そうと思っていた矢先に丈吉が殺されていたということを明かした。伊能忠敬の『大日本沿海興地全図』を仕上げた幕府天文方の高橋作左衛門景保はシーボルト蝦夷図を送った。御殿医の土生玄碩がシーボルトに葵の御紋の紋服を献じていた。

 

第三部

シーボルトは遊女其扇との間に娘イネをもうけた。シーボルト高野長英に日本地図の整理をさせていた。葛谷新助にも手伝いをさせた。駒次郎とるんの祝言の日に林蔵が現れ、シーボルトが日本地図を手に入れたとなれば訴え出ていく必要があり、早く国外に退去するよういった。林蔵はシーボルトから贈られたものを勘定奉行所に届け出た。シーボルトを密告したことが広まった。シーボルトに地図を送ったのは高橋作左衛門ではないかと疑われ、高橋作左衛門の他、長崎屋の源左衛門も調べられた。駒次郎とるんは遠山の屋敷を訪ねて相談すると、日本地図だけの問題でなく江戸城の見取り図がオランダに渡った疑いがあり、事は深刻であることを教えてくれた。シーボルトは高橋作左衛門に世界周航記や蘭領印度の地図、オランダ地理書を贈り、代わりに江戸城の見取り図を欲しがった。シーボルト奉行所の手が伸び、出国が禁じられ、駒次郎を始め通詞も身柄が確保され、娘イネも出島から立退きが命じられた。調べの途中で高橋作左衛門が急死した。江戸で火事が起きて切り放しがなされた。駒次郎は回向院に戻るようにと言い渡された上釈放された。長崎屋で待つるんの下に駒次郎は戻ってきた。海蛇の一味が口封じにやってきたが、長崎屋源左衛門の妻おかつの幼なじみで占いを行っている妙心尼が火事の原因を明らかにするとともに、火が回り梁が落ちる中、駒次郎とるんは海蛇の一味から逃げるのに成功した。シーボルトは永久国外追放となり、最後に林蔵が駒次郎とるんの前に現れて全ての種明かしをした。林蔵はその後も会津屋による密貿易を暴いた。シーボルト事件の密告者として汚名だけがついて回った林蔵だったが、シーボルトは日本辺界地図に間宮林蔵の名を書き入れ不朽のものとした。

 

100年企業の改革 私と日立 私の履歴書 川村隆

2016年1月20日1版1刷

 

帯封「どん底から最高益へ。沈みかけた巨艦・日立を再生させた立役者が、経営改革の要諦と自身の半生を語る。」

表紙裏「大企業でありながら繁栄を永続させるのは並大抵のことではない。節目で『痛みを伴う改革』を実施してこそ、新しい時代との適合が可能になり、新たな生命力が会社に吹き込まれる。それができた会社は、たとえば2008年に起こった世界金融危機のような外乱にも耐えられるが、そうでない会社は、劣化が進んだ事業を発端にして経営破綻に至ることがある。老舗企業が再び若々しさを取り戻すためには何が必要か。これが、日立の経営者として私が取り組んだ課題である。 (本文より)」

 

著者

1939年、北海道生まれ。62年東京大学工学部電気工学科を卒業後、日立製作所に入社。電力事業部火力技術本部長、日立工場長を経て、99年副社長就任。2003年日立ソフトウェアエンジニリング会長、07年日立マクセル会長などを務めるが、日立製作所が7873億円の最終赤字を出した直後の09年、執行役会長兼社長に就任、同社再生を陣頭指揮する。黒字化の目途を立てた10年に社長を退任、14年には取締役会長を退任し、現職(日立製作所相談役。元取締役会長)。

 

目次

序章 100年企業の改革

第1章 日立の経営改革

第2章 痛みを伴う改革の実践ー私の経営論

第3章 受け継いだもの

第4章 私と日立

第5章 よい人生とは

あとがきにかえて

 

アメリカを代表する大企業で構成される株価指数「ダウ工業株平均」は、1896年、優良企業12社が選定されて始まったが、それから120年が経過したいま、その12社のうちで生き残っているのはゼネラル・エレクトリックGM)ただ一社である。基盤が強いようにみえる大企業であっても、時代の風雪をくぐり抜け、100年を越えて繁栄を続けるのは容易なことではない。日本でも同じだ。100年を超える歴史を持つところはいくつもあるが、ずっと順調に右肩上がりの成長を続けてきた企業はほとんどない。最善の経営者とは、平時から「痛みを伴う改革」を継続的に実行できる人である。これが永続して繁栄する企業への唯一の筋道だと思う。

・今もスマートフォンに英語のラジオニュースを録音し、通勤の車中でそれを聞いてリスニングの練習をしている。

・社長になったら、副社長の頃に比べて見える景色が格段に広がった。「高さで3倍、視野で9倍になった」と当時言った。老化した部分もはっきり認識でき、伸ばすべき分野も見えた。あとは似た考え方を持つ少数精鋭の経営陣と一緒に経営改革の実行あるのみだった。ザ・ラストマン、慎重なる楽観主義、部分最適より全体最適、大事は理で小事は情で、会社は社長の器以上のものにはならぬ、損得より善悪などといった、長い会社生活の中で自分のなかに取り込まれていた先達の言葉や考え方の数々にも導かれ、皆と一緒に無我夢中で経営専門職としての社長業を務めた。これからは「心せよ、まだまだいいことが待っている」という言葉に頼ることにしよう。