司馬遼太郎 この国のかたち一 1986~87 

山田勝美氏によると、理のツクリの里の音は「離析](はなれる)をあらわし、これに玉へんをつけて理になると「玉のさけ目、筋模様」をあらわす文字になる、という。中国のむかし、細工人が玉器を作る場合、玉のさけ目やスジ模様ー理ーに従って細工をしたというのである。

 

荻生徂徠は中国の儒教学説を信ぜず、モノやコトを合理的に見なおすことによって儒教をあたらしい世間把握の学問に仕立てなおした。また安藤昌益は、太平洋航路をつたって南部藩に入ってきた商品経済が金貸しを生むことによって自給自足農民が落ちぶれてゆく状態を見、社会のしくみを病理解剖学者のような態度で腑分けした。さらに三浦梅園は自然のなかに条理があることを感じ、”法則を見出す”ということに生涯をついやし、独自の弁証法的な論理学を展開した。かれら以上に独創的だったのは、大阪の道明寺屋という醤油問屋の息子の富永仲基だった。あるいは大名金融業者升屋の番頭山片蟠桃でもある。仲基は、仏教という夾雑物の多い思想を人文学的な冷厳な態度で洗い込み、ついに、日本が珍重してきた法華経阿弥陀経などをふくむ大乗仏教というのは釈迦の教説ではなく、釈迦以後5百年たってだれかが創作したものだとした(『出定後語』)。かれの教説は、副効果として、仏教ぎらいの国学者本居宣長など)をよろこばせた。蟠桃は、中世以来、固定概念になっているモトやコトを科学的に検証するだけでなく、細片までハカリにかけて取捨した。その著「夢の代」ではいっさいの神秘主義を排し、鬼神は存在しないとする無鬼論を展開した。仲基の論とはちがい、蟠桃の論をおしすすめると、神仏は否定されてしまう。

 

倜儻不羈(てきとうふき)」 江戸期の知識人のあいだでは、ごくふつうのことばだった。ある種の独創家、独志の人、あるいは独立性のつよい奇骨といった人格をさす。大隈重信が、自分の出身藩である肥前佐賀藩薩長土肥の肥)のがり勉主義の藩風を『大隈候(伯)昔日譚』のなかでののしっている。「一藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに

 倜儻不羈の気象を亡失せしめたり」

 

この時代の教養人は半端ない。どれくらいの読書量、勉強量なのか、と、いつも思う。勉強せねば、勉強。