中島敦 ちくま日本文学012 1909-1942

山月記

 隴西の李徴は博学才頴、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついて江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった・・・進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、おれは俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。己の珠に非ざることを惧れるが故に、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信じるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果となった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという・・振返って、先ほどの林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に踊り出たのを彼らは見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、元の叢に踊り入って、再びその姿を見なかった。昭和17年2月

 

弟子

 子路の心は決まっている。濁世のあらゆる侵害からこの人を守る楯となること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労汚辱を一切己が身に引受けること。僭越ながらこれが自分の務だと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣るかも知れぬ。しかし、いったん事ある場合真先に夫子のために生命を擲って顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。

 この子路は、直情型の人間であったため、蒯聵(かいがい)に残忍の方法で殺害されてしまう。滅多に人前で涙を見せることがなった孔子は潸然として涙を下した。

 

盈虚(えいきょ)

 子路を殺害した蒯聵(かいがい)の哀れな末路を描いた作品。

 

知性と南風 池澤夏樹

 芥川龍之介は36歳でなくなり、中島敦は34歳で死んだ。・・中島敦はこれからというところだった・・一人中島敦だけは人間の普遍的な生き方を考えていた。こういう視点を持つことができるのは正に彼が知識人だったからである。

 

 すごい文章力だ。圧倒される。ちょっとずつ読んでいこう。この時代の人の文章とは思えない流暢さがある。こういう文章をかけるように、また言葉遣いができるようになりたいものだ。