創造への飛躍 湯川秀樹

昭和46年7月30日第1刷発行 昭和56年11月20日第7刷発行

 

含蓄が深い言葉を列記してみました。知的レベルが本当にとても高い方です、本当に。専門分野のことはさっぱり分かりませんが、それを通して、更にその奥にあるもの、というか、本質に迫ろうとしているのが素人ながら感じ入るところが多々ありました。

 

私の人生観の変遷(昭和29年9月)

科学の進歩が人類を幸福にするかどうかという問題は単純な真理の問題でなく、当為の問題、倫理の問題でもあります。本来科学の進歩が人類を幸福にするという保障はなかったのであります。少なくとも原子力という問題がでて、非常にそれが怪しくなってきた・・・

現在の私も人間とは未知の世界の存在を知り、未知の世界を開拓しゆくものだと思っています。しかし、それと同時に色々な方向に人間が進もうとする時、その動きを全体として調節し正しい方向に向けてゆくような動き、昔の言葉で言えば智慧、近頃の言葉では叡智、そういうものを人間が持っていることが必要だと思います。これは今日の世界では特に大切なものだと思います。そういう働きをもって強めていかなければならない。そうでないと現代の世界は非常に危険であります。

 

宇宙と人間

知性と創造と幸福(昭和30年1月)

一番大きな問題は常に人間の幸福である。自分の幸福が問題であり、他人の幸福が問題である。何を幸福と感じるかは知性だけの問題でないことはもちろんである。知性が容易に合理的に把握することのできない人間の感情とか情緒とかいわれるものの方がより直接に幸福につながっているのである。知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働きが、そこではしばしば決定的な意味を持ちうるのである。しかしこういう事情があるからといって、人間の幸福の問題に対して知性が無力だということにはならない。知性は成長し深化しうるところのものである。知性が自らを深めることによって、逆に人間性のより大きな領域を知性の面まで浮かびあがらせることができるのである。このような努力が人間の幸福の問題と密接につながっている。外なる世界へ向かっての科学の探究の進展が知性の深化によって裏づけられていないなら、新鋭の武器を持った野蛮人ができあがるだけであろう。

 

天才の諸相

 デカルト(昭和39年8月)

彼は「三段論法において演繹される当の真理を、すでに前もって知っていなければならない」と言い切っている。まことに卓見である。彼によれば演繹論理は、直感の連鎖のようなものである。

 彼のいう「明白な直感」はどうしてつくり出されるか。規則12で

「悟性、想像力、感覚、記憶のあたえる、すべての助力を用いるべきである」と述べられている。

 私は数ある17世紀の天才の中でも、特にデカルトに現代的な意味を認めるのである。何故かと言えば、抽象化―およびそれと密接に関連する機械化―という一方的な傾向を極度に進めることは、結局、学問を人間の本質的興味の対象でなくしてしまうようになるだろうと心配するからである。

 

物理学的世界について

物理学的世界と心理学的世界(昭和18年7月)

量子力学的観測なるものが、本来「微視的」と「巨視的」という二重性を持つとも言い得るのである。

 

対話による解説

 創造への飛躍 湯川秀樹小松左京(昭和42年3月11日)

 創造性の考察は、出発点はどれも必ず類推。しかし類推だけではその本質を押さえたとは言えない。人間の知能の働きはアイデンティフィケーション(同定)というプロセスがあり、それが哲学の始まりになる。このプロセスの組み合わせやその形が変わっていくようなことで創造性を捉えたいと思う。

 近くが現在ものを見ているところへ前の記憶が再生されてそこへ重なってくる。重なり合うばかりじゃなくて広がってなきゃいかん。広がっているもので中心に何か中核みたいなものがあると、周りはぼやっとしているけれども、重なる。その広がっているということと何かぼやけを持っていることの両方が必要。人が使う言葉というのはとくにぼやけているので、そこに創造性がある。

僕は直感的イメージというのがどっかにあって、そこを足掛かりに抽象化、一般化を進めていこうと思う。ところがいまの若い人は初めから抽象一点張りという傾向が強い。しかしそうなると、物理が非常に貧しくなっていく。やせているばかりじゃないかと心配している。

生きる喜びを感じるということは創造性とつながっている。創造性なるものは人類社会にとって人間一々にとって非常に価値あるものとしてあらわれてくる。