プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(下) マックス・ウェーバー著 梶山力 大塚久雄訳

 

 1962年8月16日第1刷発行 1984年10月11日第28刷

 

ようやく読了。でも、本当に難解。分かったかと言われれば一読しただけでは到底わからなかったとしかいいようがない。働かざる者食うべからず、というパウロの指令を前提に、労働は神の御心に適うという大前提がキリスト教にはあるようです。そして怠惰な休息は神の御心に反するとも。その上で、プロテスタントの禁欲主義が、資本主義の利潤追求とどうやって整合性が取れるのか、そこに主題があるというのは後半になってようやく少し理解できるようになりました。スペインやイタリヤのようなカトリックで資本主義が発展せずにプロテスタントだからこそ、あるいは予定説だからこそ資本主義が発展していくカギがあるということが言いたいようです。しかしそもそも予定説とは因果を否定する考え方。だからこそ禁欲主義者は働き、結果として利益を得るから、そのことを正当化できるという考え方のようですが、因果を肯定した方が思考方法としてはスッキリするように思います。もっとも人間の外に神や仏を置いて因果論を立てることは予定説がいうように神や仏利用になるから因果論は取れないんでしょうね。であれば、人間の中に神や仏を置いて、そこから因果論を立てるというのが最も説得力があるように感じましたが。いずれにしても難解な本でした。頭にすっと入ってこないのは、私の勉強不足、知識不足が原因だと思いますが、でも初学者にも分かる書き方をしてほしい。率直にそう思いました。ただカトリックプロテスタントと言っても諸派あり、そのそれぞれの宗派と言ってよいのか分かりませんが、各宗派ごとに人々に様々な影響を与え続けているんだなあというのはそこはかとなくですが分かったような気がします。最後に、この著者が最も言いたかった箇所は次の箇所ではないかと思い引用して終わります。

 

「『神のために富裕になるようあなたがたが労働するのはよいことである』富が危険視されるのは、ただ怠惰な休息や罪の快楽への誘惑としてのみであるし、富の追求がそうであるのも、他日煩いなく安逸に暮らすためになされるばあいだけである。むしろ、職業義務の遂行は道徳上許されるに止まらず、まさに命令されているのである」

「(註十二)カトリシズムでは条件付きで許容されえたことがらが、プロテスタンティズムでは積極的に道徳的に善いこととして現れたのである」