正義の声は消えない 反ナチス・白バラ抵抗運動の学生たち  ラッセル・フリードマン 訳/渋谷弘子

2017年7月 初版第1刷発行

度肝を抜かれました。白バラの話自体は知っていたつもりでした。でも、容易に説明することなど不可能な、あんな非日常的な空気の中で、自らの良心と信念に殉じて、こんなに勇気のある学生が、現実に行動を起こし、結果、死すともヒトラー政権を倒す、という歴史が実際にそれこそほんの数十年前にあったとは。読みながら思わず胸が熱くなりました。

以下、この本の要旨です。

 

百年前に、既にハイネは「本の焼かれるところでは、やがて人間が焼かれることになる」と。

ミュンスター市のローマ・カトリック教会の司教、クレメンス・アウグスト・グラフ・フォン・ガーレンがナチスの残虐な行為を厳しく批判する説教を行い、謄写機で刷られて郵送されてきたものを手にした、ミュンヘン大学医学生だったショル・ハンス。ゲーテやシラーなドイツ古典派の作家や哲学者、古代ギリシャの哲学者アリストテレス、中国の春秋時代の思想家である老子などを読んでいたからであろう、自分も沈黙を続けるのではなく、声をあげなければならないと考え、遂に行動に移した。1942年6月終わりのことだった。見出しに「白バラのビラ」と。ゲーテの戯曲『エピメーニデスのめざめ』に出てくる「希望」の言葉を引用して締めくくられている。最初のビラは百枚だけ刷られ、郵送された。最初、ビラの筆者を知っているのはハンス、アレックス、ヴィリー・グラーフ、クリストフ・プロープストの4名だけだった。第1号のビラの一部と英語に翻訳されたものは本書68頁に掲載されている。

夏の間に2号から4号までのビラが続けざまにつくられ、7月の終わりには10名程の学生が加わるように。ミュンヘンの建築家マンフレート・アイケマイヤーは命がけで自分のスタジオを学生たちに会合場所として提供。4号には「ヒトラーの口から出てくることばはすべてうそである」「われわれは黙っていない。われわれは君たちの心にささったとげである。白バラは君たちに心安らかな日々は送らせない!」と。

クルト・フーバー教授(49歳)を訪ねたハンスとアレックスは新しいビラ配布のことを伝えると、フーバーは抵抗運動に加わることに。第5号のビラは「白バラ」ではなく「ドイツにおける抵抗運動のビラ」という見出しに。そして「ヒトラーはこの戦争に勝つことはできない。できるのは長引かせることだけである」「手遅れになる前に、国家社会主義とかかわるすべてのことがらと縁を切れ。かくれている者、勇気がなく、ためららっている者すべてに、やがて、おそろしい正義の審判が下されるであろう」と。第6号のビラには「ついに決着をつけるときが来た」「今こそ立ち上がれ、復讐せよ、つぐないをせよ、われわれ国民を苦しめる者たちを倒し、新しい精神的なヨーロッパを打ち立てよ」と。

そしてハンスと妹のゾフィー、クリストフは遂に逮捕される。1943年2月22日、州立裁判所の法廷において、午後1時30分、フライスラー裁判長はギロチンでの死刑を申し渡した。父親はハンスに「おまえは歴史に名を残す。いくらこんなことがあったとしても、正義というものは必ず存在する。わたしはおまえたちふたりのことを誇りに思っているよ」と。そして午後5時、処刑。ゾフィー21歳、ハンス24歳、クリストフ23歳。ハンスは死の直前、「自由万歳!」と叫ぶ。翌日以降逮捕が続き、アレックス、フーバーも7月13日には死刑に。グラーフは6か月間独房に閉じ込められ厳しい尋問を受けたが1人も名前を明かすことなく10月12日処刑室に送られた。さらに多くの人が逮捕され処刑されていった。

しかし白バラのビラはドイツ国内だけでなく国外にも出回り、スウェーデンやスイス、ロンドンにも亘り、1943年のうちに数百万人に白バラ抵抗運動の学生たちの声は届いた。アメリカからは戦時ラジオ放送を使ってトーマス・マンノーベル賞受賞者)が「勇気ある、偉大な若者たちよ!君たちの死はむだではなかった。わたしたちは決して君たちのことはわすれない」と。

現在、ミュンヘン大学正面入り口前の広場は「ゲシュビスター・ショル・プラッツ(ショル兄妹広場)」と、通り一つわたったところに「プロフェッソァ・フーバー・プラッツ」が。