ベートーヴェンの真実 遺髪に隠された謎を追う ラッセル・マーティン&リディア・にブリー 訳/児玉敦子

2012年6月19日 第1版第1刷発行

 

ベートーヴェンの生涯をたどりつつ、1994年にベートーヴェンの遺髪を手にした2人のアメリカ人が最新の科学技術で遺髪を調査することで、様々な謎を解き明かそうとしたノンフィクション物語。

 

300曲以上の作品を作ったベートーヴェン。音楽界の巨匠。誰もが知っているベートーヴェン。耳が聞こえなくなった事実を彼はどう受け止めたのか。生涯の友に「運命の首根っこを捕まえてやるつもりだ。打ち負かされるつもりはない。ああ、千もの人生を生きられたら、どんなにすばらしいだろう」と書いていたことを著者は紹介する。

 

若きベートーヴェンモーツァルトが最初に会った場面で「あの少年から目を離さないように。いずれ、世間の人びとにたくさんの話題を提供するようになるだろう」と語ったことも。同時期に生まれた2人の天才、しかもモーツァルトの方が年上だったんですね。

 

さて、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの死の直前、15歳のフェルナント・ヒラーが師のヨハン・ネポムク・フンメルの2人でベートーヴェンを訪ね、死亡の知らせを受けた翌日、ヒラーは師に相談しながら、形見に髪の房を切り取る。ヒラー自身、ベートーヴェンから「人生を藝術に捧げ尽くすのだ」と励まされ、小さな楕円形の木枠のケースに収めたロケットにベートーヴェンの髪を密封し、作曲家として活躍する。ヒラーはオペラ歌手アントルカと結婚し、息子パウル・ヒラー30歳の時にこれを贈る。息子は1911年、グロースへニヒにロケットの修理を依頼し、説明書きを付け足してもらう。このロケットが、後にデンマークのギレライエという漁村に再び姿を現した。ギレライエの教会にナチから避難した一人がカイ・フレミングという医師にロケットを渡すことによって。フレミング医師に渡るまでは謎のようである。いずれにしてもユダヤ人を救うという勇気ある行動をデンマーク人が繰り広げていた時期にこの奇跡は起きた。

レミング夫妻はミシェル・ド・リベルを養女に迎え、ミシェルは母から昔お父さんが助けたユダヤ人からもらった大切なものだと説明し、母は1970年代半ばにミシェルに贈る。ミシェルは夫が若くして亡くし未亡人となり、サザビーズに持ち込み、オークションに出すことに。そして1994年12月1日、一瞬のうちに競り落とされた。3600ポンドで競り落としたのはベートーヴェンの記念の品を収集していたアイラ・ブリリアントとアルフレード・“チェ”・ゲバラ医師。

1996年、科学的検査が本格的に始まり、毛髪研究の第一人者ウィリアム・ウォルシュ博士が信頼のおける科学者に依頼して微量金属分析を実施。平均42倍の鉛が含まれていることが分かる。重度の鉛中毒にかかっていたのだ。難聴、かんしゃく、奇妙なふるまいなどの原因であった可能性が高い。頭蓋骨の骨片の所在が1999年夏に突き止められ、検査の結果、鉛中毒の診断が確定する。その後、骨片と髪のそれぞれの遺伝子を調べて同じ分析内容であることから同一人物のものであることも証明される。『ベートーヴェンの遺髪』(高儀進訳、白水社)で検査結果が発表されると、同書は21か国語で翻訳されドキュメンタリー映画にも。

 

ベートーヴェンの遺髪から、こんなドラマが生まれ、時代を経て、ベートーヴェンの難聴の原因が明らかになるとは。ただ、どうして鉛中毒になったかについては、推測の域を出ないようだ。藪医者が当時は治療薬として鉛玉を出していたということもあったらしい。それにしても苦難を突き抜けてあのような誰もが感動する楽曲を作り続けた至高の天才・ベートーヴェン。寝る前に時々聞いているが、本当に素晴らしい作曲家だ。