国木田独歩 武蔵野/欺かざるの記〔抄〕 監修 佐伯彰一 松本健一

1995年11月25日初版第1刷発行

 

遅ればせながら、国木田独歩の『武蔵野』を初めて読んだ。北野昭彦さんの解説によると、「武蔵野」は、従来顧みられなかった雑木林の美を描いて、日本文学の自然描写に一新紀元を画したとされていた。なるほど読んでみて、ツルゲーネフの「あひびき」が一日の空模様と光線の具合で林・野・川面の景色が間断なく変化する様を描いているのに対し、「武蔵野」はもっと長期的に季節の変わり目にも着目して、半年間の推移を連続的に捉え、描写している。それにしても独歩が言う「武蔵野」の範囲は広い。でも、西半面に「八王子は決して武蔵野には入れられない」ともあった。へー。東半面は「亀井戸辺より小松川へかけて木下川から堀切を包んで千住近傍へ到りて止まる」とあるから、本当に広い。

自然描写は要約して書き写すことなど到底できない。この文章全体に触れねば味わうことは不可能である。こういう文章に日々触れていくことが、日本人の美意識・美的感覚を培うことになるんだろうと思う。

 

続いて『欺かざるの記〔抄〕』を読む。明治生まれの22歳の独歩がつけていた日記である。日々、独歩が精進しようと刻苦勉励していた跡が窺われる。こんな日記をつけて、自伝的小説として発表したこと自体に驚かされる。

2月13日には「吾は直截を学ぶ可きなり、軽忽を懼る可きなり」との言葉で終わっている。

3月21日は「昨夜吾は左の章句を幾枚か紙に大書して吾の眉端、右壁にはり下げ以て思想感情の光となしたり。其一に曰く、汝自身の思想を信ずる事、汝の内心に於て、之れ吾に真理なりと思ふ者は、凡て人にも真理なりと信ずる事―是れぞジニオス也。エメルソン自信論より。其一に曰く、熱心は生命なり。シルレル 其一に曰く カーライル 其一に曰く ウォルスウォルス 其一に曰く・・之れ2月18日に自誡中に掲げたる、エメルソン「自信論」の編首に出でたる詩なり。其一に曰くウォルスォルス 其一に曰く、吾はシェークスピアに非ず、吾はゲーテに非ず、吾はユーゴ―に非ず、吾はカーライルに非ず、吾はウォールズウォースに非ず、孔子に非ず、仏に非ず、吾は吾也。吾を生む者は神、吾を育つる者は宇宙、吾を養ふ者は人情。以上此の如し。吾は之れに由て吾自らの思想感情の伝記を知る也。只だ吾自ら吾に望む願くは堅き信仰あらしめよ、倦まざる労働あらしめよ、健猛なる意志の力あらしめよ、爾の行為先づ理想に適はしめよ、然る後教ゆるの教師たれ」とある。激しい。

ほぼ毎日のように凄まじい自己との格闘、読書の跡が窺われる。大変勉強になる。