松下幸之助物語 一代で世界企業を築いた実業家 渡邊祐介

2019年10月2日 第1版第1刷発行

 

日本人で松下幸之助の名前を知らない人は恐らくいないだろうと思う。松下電器、ナショナル、パナソニックというブランド名とともに、松下幸之助そのものがブランドだと思う。

両親や多くの兄弟姉妹を早くに亡くし、小学校も出ることができず苦労し続けた幼少期。それでも何が大切か、日本にとって重要かという重要問題から目を逸らさず、結果、幼い頃に学んだ熱意ある誠意こそ最大の武器との哲学の下、不可能を可能にした経営の神様!学ぶことがたくさんある、一読する価値のある書物でした。

松下幸之助の有名な言葉に「もしも『松下電器は何をつくるところですか?』とたずねられたならば、『松下電機は人をつくるところでございます。あわせて電気製品もつくっております』と答えなさい」と若い社員に命じていたというのは有名な話ですが、その通りの人生を送られていたことを改めて教えてくれています。

敗戦後、財閥でもないのに松下幸之助公職追放されかかった時、松下電機の労働組合が先頭に立ってGHQに松下社長の追放をやめてもらうよう働きかけをするために嘆願書を集め始めたとのくだりを読んだときは驚きを超えて感動しました。経営側と労組側の対立が厳しい時代に労組が経営トップを擁護する話は聞いたことがありません。それほどまでに人として信頼されていた松下幸之助さん。今の日本の中でこれほどまでに労働組合に愛されている経営者はいるのでしょうか。

この本は冒頭で松下幸之助を研究したハーバード・ビジネススクールのジョン・P・コッター教授が松下さんの晩年のエピソードを紹介するところから始まります。松下幸之助さんが80歳のころにあるレストランで食事をしたとき、ステーキを半分残し、その後コック長を呼び寄せる場面が紹介されています。どうしてコック長を呼び寄せたのか?「今日のステーキは大変おいしかった。でも自分は80歳だからそれほどたくさん食べることができない」このことをコック長に直接伝えるためだったわけです。人づてではなく直接伝える、この気遣い、心遣い。これがコッター教授が感銘を受けた理由です。特別な才能があったわけでもリーダーシップをもっていたわけでもない、いわば凡人に過ぎない松下幸之助が何故世界の松下となったのか?それは自分自身を成長さえたいという思いを人一倍強く抱いていたからだ、だからリーダーとしての在り方という前に人としてのやさしさ、素晴らしさを感じたということが紹介されています。

「思いやり」。それを具体的に「今目の前にいる人に対し」「これほどまでに自分のことを考えてくれているのか」それを相手に伝えることができる能力。それこそが、人として最も大事なことであるし、人から信頼を得ることができる道だと教えてくれています。

晩年、松下幸之助は日本の3つの大学、海外の2つの大学から名誉博士号をもらったそうです。小学校も満足に出れなかった松下幸之助ですが、やはり学歴と人の偉さとは全く関係がないことが良くわかります。松下幸之助の『道をひらく』は50年たっても新しい読者を得て540万冊発行され、戦後の日本の本の第2位だそうです。今度読んでみたいと思います。