どん底  ゴーリキー  訳者中村白葉

昭和 11 年 2 月 10 日発行 昭和 13 年 5 月 10 日第 7 刷発行

救われない人達がいる。どん底にいる人達がそこから這い上がろうとして画策するも、結局、人の道に反することをすれば、這い上がることは結局できない。そんな虚しさが残る。このような戯曲が演じられた劇場の中で迫真の演技を見た観客はどんな思いを抱くのだろうか。私はまだ観たことはないが、想像するに何とも後味の悪さを残るのだろうと思う。と同時に人間という存在のちっぽけさを痛感するんだろうとも思う。

この『どん底』の舞台は、家主コストゥイリヒョフ(54歳)の宿の中でのドタバタ劇。妻ワシリーサ(26歳)は夫との仲が悪く、夫から自由になるため、泥棒稼業が板についたペーペル(28歳)を誑し込んで夫の殺害を唆す。うまくいけばペーペルがワシリーサの妹ナターシャ(20歳)と結婚できるし金も手に入ると。ナターシャは当時虐待を受けていたから、結婚できれば地獄から逃れられるしペーペルも想いを遂げられるし、何よりワシリーサは自由を手に入れられる。皆が自分の思惑を達成することができる、ペーペルは第3幕で遂にコストゥイリヒョフの殺害を成功させる。ところが、ワシリーサはペーペル殺害を公表したため、ペーペルは本当の話をし始め、そのためナターシャは結婚相手と思っていたペーペルが殺人犯だと知り、自分を含めて皆牢屋に入れてくれと言い出し、裁判になる。結局誰一人幸せになることなく、どん底にいる人たちはどん底のままだ、という辛い辛いお話。

それはそれとして、随所に考えさせられるセリフがちりばめられているのも、この小説のもう一つの面白さだと思う。その中でも、架空の説教者ルカ(60歳)の言葉は印象的だ。例えば「わしはただ、人にいいことをしなかったのは、悪いことをしたと同じだと言っているだけだよ」(64 頁)。古参の住人サーチン(40 位)の第4幕の最後の方のセリフは、更に一層印象的だ。「人間は自由なんだ!人間―これは真実だ!・・・それはどえらく大きなものだ!その中には凡ての初めと終りとがある。すべては人間の中にあるんだ、すべては人間の為にあるんだ!・・人間は尊敬しなくちゃならよ!・・・人間はもっと上のもんだ!人間はふくれた胃袋なんかよりずっと高尚なもんだ!」と。きっと、どん底にあっても、ゴーリキーはこのことが言いたくてこの戯曲を書いたんだろなあと思わずにはいられませんでした。ちなみに巻末に「(本書)定価 20 銭」とあった。私が古本屋で買った時の値段は 50円。何とも時代を感じさせますね。