異邦人 カミュ 窪田啓作訳

昭和27年9月30日発行 平成7年6月15日98刷改版 平成25年6月10日127刷

 

長く読み継がれているカミュの代表作。

裏表紙に、実に簡潔にストーリーがよくまとめられている。「母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について『太陽のせい』と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュ―の代表作」とある。第1部と第2部からなり、冒頭「きょう、ママンが死んだ。もしかすると昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。『ハハウエノシヲイタム、マイソウアス』これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう」で始まる。

第1部の最後は「空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなかやだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の異常な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび撃ちこんだ。弾丸は深くくい言ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた」で締めくくられる。

第2部は取り調べの模様、弁護士や裁判官、検事との法廷でのやり取りが淡々と続く。有能な検事と無能な弁護士を対比しつつ、審理の最後の方で裁判長が「あなたの行為を呼びおこした動機をはっきりしてもらえれば幸いだ、といった。私は、早口にすこし言葉をもつれさせながら、そして、自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、といった。廷内に笑い声があがった。弁護士は肩をすくめた」という有名な場面が登場する。この「太陽のせいだ」という言葉が小説『異邦人』の中でひときわ主人公の異常性・犯行の不条理さを克明に浮き上がらせるキーワードになっているのだが、この前後を読むと、異常な説明であることを承知の上で、主人公がこのように敢えて説明したことが分かる。その上で、裁判の結論として裁判長は「奇妙な言葉つきで、あなたはフランス人民の名において広場で斬首刑をうけるのだ、といった」ということになる。そしてカミュは「そのとき、私は顔という顔にあらわれた感動が、わかるように思われた。それは、たしかに尊敬の色だったと思う」という言葉で締めくくっている。ところがこの小説は、このままでは終わらない。第2部の後半で司祭がムルソーを説得しようと試み、それに対しムルソーが怒りを爆発させて司祭に食ってかかる場面が迫真性をもって描かれている。いわく司祭が「私はあなたとともにいます。しかし、あなたの心は盲(めし)いているから、それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」というと、「私の内部で何かが裂けた。私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった」とし、その直後から怒涛のような勢いで、ムルソーは“死刑を待ち受けている自分だけが死ぬのではない、この世の全ての者はいつか処刑されるのだ、この死刑囚め、君はいったいわかっているのか”と叫ぶ。そして司祭が出ていくと平静を取り戻したムルソーは、久しぶりにママンのことを思い、生涯のおわりにママンがなぜ許嫁を持ったのか、今わかるような気がした、私もまた大きな憤怒が私の罪を洗い清め、世界を自分に近いものと感じ、幸福であることを悟った、とした後、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげることを望む、としてこの小説が終わる。世界の人々と自分とをつなぐものは一体何か。

白井浩司の解説によると、どうやら「ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう」というカミュ自身が『異邦人』英語版に寄せた自序(1955年1月)が明快な解明を与えているとする。

ウーム、そうゆうふうに読み取ることが出来る人もいるんだなあ。私にはまだ難しい。