アルベルト・アインシュタイン 相対性理論を生み出した科学者 筑摩書房

2014年8月25日初版第1刷発行

 

1879年3月14日、ユダヤ系ドイツ人として、ドイツ・ウルムで生まれる。小さい頃からバイオリンを習う。集団教育に馴染めない偏屈な小学校時代。ギムナジウムで数学の成績を伸ばし、13歳でカントの哲学、物理学者マッハの本を読み進み、家族はミュンヘンからミラノに移住するも、アルベルトだけはミュンヘンに残る。が、病気を理由に休学し両親の下に戻り、独学で大学受験するも失敗し、高校に再入学した後、17歳でチューリッヒ工科大学に入学。22歳でスイス国籍を取得し、親友グロスマンの協力をえて特許局審査官の仕事につく。その傍ら、大学時代の友人ベッソーと議論を戦わせ、研究を深め、当時常識とされていたエーテル(光の媒体として想定されていた物質)の存在を否定。1905年、5つの重要な論文を発表。その中に相対性理論最初の論文が。また後にノーベル物理学賞を受賞する対象となった光電効果の論文も。ところが論文が掲載されるも期待ほどには反響がない。その中でプランクだけが関心を持ち、その後チューリッヒ大学教授になる。プラハのドイツ大学に一度移籍するが、再びチューリッヒ工科大学の教授に就任し、相対性理論に重力を組み入れて一般相対性理論を1915年に完成させる。第一次世界大戦後、ノーベル賞受賞し、世界訪問の合間に1922年来日。慶応義塾大学での5時間にもわたる一般性相対性理論の講演会を開く。ちなみにノーベル賞受賞の際の賞金は約束どおり前妻ミレーヴァに渡され二人の子の養育費となった。その後家族の安全のためにアメリカ行きを決断。プリンストン大学内の高等研究所で統一場理論の研究に従事。ドイツのオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンがウランに中性子をぶつけてバリウムを作り出すことに成功し、原爆の可能性に道を開いたため、ヒトラーの手に原爆がわたることを阻止しようと、レオ・シラード・ユージン・ウィグナーの3人でルーズベルト大統領宛てに手紙を書き、原爆開発が始まる。後にドイツに原爆を開発する力がなかったことを知ったアインシュタインは進言したことを悔やむ。1948年にユダヤ人が夢見たイスラエルの独立宣言。初代大統領ハイム・ワイツマンがなくなると、アインシュタインに正式に大統領の就任要請が届くも、自分がやるべきことではないとして断る。1955年4月18日、腹部大動脈流破裂にて76歳で没。「タイム」は「最高の知性として、比類なき象徴として現代に燦然と輝く人。穏やかで浮世離れした学者でありながら、乱れた髪で鋭い眼光を放ち、人道主義を貫く。その顔はひとつのシンボルとなり、その名前は天才と同異議語となった」と讃える。

誰もが知っている「E=mc²」。その生みの親。科学と平和への確かな足跡を残した20世紀最大の天才。