路傍の石 山本有三

1964年1刷 1988年58刷

 

 昭和12年から朝日新聞に連載された小説。人道主義的思想が強い作品のため軍部ににらまれ、第2部がなかなか発表できず、主婦の友で掲載されることになるも、軍部の圧力が加わり筆を折ってしまい、第2部は書かれずに終わる。

 明治の中期、主人公の吾一は、父が裁判のために東京に頻繁に出掛けるため、母と二人暮らし。母は袋はりの内職をしていたが、貧乏のため、中学へ進学したい吾一の希望はかなえられない。そんな悲しみも加わって、負けん気の強い吾一は友達との口論から鉄橋の枕木にぶらさがる。無謀であるけれども有限実行の吾一は周囲から一目置かれる存在になるが、呉服屋の小僧に奉公に出され、苦労しない呉服屋のせがれのために中学の宿題を毎夜毎夜やってあげる吾一。そのうち宿題すらやらせてもらえずこき使われ、母も過労で亡くなってしまい、ある日、呉服屋を飛び出して父を探して上京するも、父の行方はようとして知れずその下宿屋で女中代わりにこき使われ、ある日そこをも追い出されると、怪しい老婆から誘われて葬儀場をめぐるおともらいの片棒を担がされる。そんな事を続けている自分が嫌になり、文選見習募集の半紙を見つけて応募する。保証人が必要のため老婆に依頼するも拒絶され、困っているところに、下宿屋の画家黒田と偶然出くわし、黒田から励まされる。「艱難、汝を玉にす」という言葉を引きながら、黒田自身の苦労話を、吾一のはなむけの言葉として送られ、保証人になってもらい、文選の見習になる。が、活字を拾う仕事は一切やらせてもらえず、ひたすらランプ掃除にあけくれる。ある時ランプに誰かが水を入れてランプが消えてしまうと吾一の悪戯だと誤解されてボコボコに殴られてしまう。ある時職工がたばこをふかしている時に吾一が代わりに活字を拾う手伝いをしていると、小学校時代の恩師である次野弧松という名前が入った原稿紙を見る。あの次野先生では?と思った吾一はちょくちょく事務室に顔を出すと、遂に次野先生と再会する。ところが面倒くさい顔をされて吾一は泣いてしまう。が、仕事が終わると小料理屋に連れていかれ、商業学校に勤める次野先生の学校に入学を勧められる。「索居(サッキョ)なお寂寞。あい会うて、ますます愁辛(シュウシン)」(杜甫の一節)が自然と口に出てくる野次先生。ところが、実はこの野次先生こそ、吾一の進学のためにと親族から預かった100円を妻が病気になった時に使い込んでしまい、それを吾一に打ち明ける。それを聞かされた吾一は野次先生にお酌をしようとすると、吾一の正直さに強く感心した野次先生は吾一が将来大成すると涙ぐんで励ます場面で終わる。

 沢山の名言が綴られているが、中でも黒田画家の「ねじふせられて、背なかに重たいものをのっけられた時に、『ううん、こんちくしょう』と、はね返す力が、おれたちのポンチなんだ。『時代の主人』は、必ずそういう苦労のなかから、生まれるんだ。ところが、おれなんか、人間があまくできているもんだから、すぐいい気になっちまたんで、すてえんと、ひっくり返されてしまったのさ」、「人間はな、人生というトイシで、ごしごしこすられなくちゃ、光るようにはならないんだ」という言葉は、自身の苦労話を合わせて光彩を放っている。

 全体を通じて感動的であり、名作と言われる作品であることは間違いない。