しろばんば 井上靖

1964年12月1刷 1989年11月52刷

 

 両親から離れ、伊豆の湯が島でおぬい婆さんに育てられる洪作少年の哀感を、ユーモアを交えて綴る。郷愁をよびおこす著者の自伝的名作。

 しろばんばは、Wikipediaで調べると「雪虫」と出てくる。小説の冒頭に、洪作が住んでいた伊豆の湯が島に夕暮れ時になると、しろばんが空中に浮遊する場面が登場する。それを小説のタイトルにした作者の心は一体何だったのだろう?

 おぬい婆さんと一緒に暮らす洪作の両親は豊橋に住み、親子なのに一緒に生活していない。おぬい婆さんの家の近くには本家にあたる上の家があり、そこには洪作の祖父母、洪作の母の弟妹達が住んでいる。おぬい婆さんは曾祖父の妾であり、曾祖父の本妻とは対立関係にある。おぬい婆さんは洪作をかわいがり、洪作もおぬい婆さんになついた。このあたりの複雑な関係があるものの、洪作は近所に住む友人たちとよく遊びながら成長していく。

 豊橋に住む両親の下に洪作は部落から離れて一度遊びに行く。豊橋に残るか伊豆に戻るか洪作は父親から自分で決めてよいと言われておぬい婆さんと一緒に生活する方を選ぶ。

 沼津で商売を成功させた親戚の下に遊びに行った時に初めて海を見て洪作は昂奮する。しかし少し年上の二人の娘が意地悪いため好きになれない。贅沢な暮らしぶりにも洪作は肌が合わない。

 本家にいた母の妹さき子に思慕を寄せていた洪作は、さき子が小学校の先生となり、同僚の教員と恋仲となり、子どもを産み、最後の方では肺結核で死んでしまう。さき子の訃報を聞いておぬい婆さんが泣き崩れるのを見て、さき子の死を洪作は初めて受け入れる。

 さき子が亡くなった直後、洪作は友達を引き連れてずいどう(トンネル)見物に出掛ける。後方にいる友達に「がんばれ!」と声を掛けたのは、頭にかすめたさき子の死をふり払うためだった、という場面で終わる。

 自然の中で鋭い感覚を磨き、母と別れて暮らした洪作には母性感情を強く抱き、村の子どもたちと野山を駆け回る中で孤独感を沈殿させていった洪作。それがゆくゆくは作家としての井上靖歴史小説の中に深まりを見せている、と末尾の福田宏年の解説にはあった。

 『敦煌』『蒼き狼』『楼蘭』『風林火山』など、有名な歴史小説を残しているので、これらの作品もゆくゆくはじっくりと味わってみたいと思う。