どくとるマンボウ昆虫記 北杜夫

1975年8月初版発行 1987年7月第15刷発行

 

 斉藤茂吉の次男・斉藤宗吉が「北杜夫」だ。精神科の医者だが、その観察眼の鋭さ・好奇心溢れる筆致には恐れ入る。随所に皮肉・ユーモアが込められていて、今の人たちはそれを読み解く知識があるのか少々心許ない気がする。それにしても数えきれない様々な虫に関する無尽蔵とも言ってよい、それぞれの虫の形状やら色艶やら生態やら、その知識、経験等、舌を巻く。

 比較的最初の方に、ある種の蟻が奴隷を持っている、という事実を知ったミシュレ(『フランス史』で有名な歴史家だが、博物誌『虫』の著者でもある)が「奴隷制度の支持者、悪のすべての友にとっては、なんという歓喜、なんという凱歌であろう!」と書いたことに、著者は「どんな碩学、どんな名文家であっても、こう昂奮してもらっては困る」などと皮肉るところが著者らしい。地球上におよそ5千数百首の蟻が、日本の内地にも百種類以上の蟻が住んでいて、クロナガアリ、クロオオアリ、トゲアリ、アカヤマアリ、キイロケアリ、トビイロケアリ、アリマキ、ハキリアリ、トビイロシワアと、延々と蟻の生態が細かく記述されている。そしてある種のシジミチョウと蟻との共棲関係は驚くべき事実だとしてアリマキ、オオクロアリ、クシケアリという様々な蟻との共棲関係を細かく描いていく。なんでこんな細かなことを知っているのかと不思議に思う。それがおよそありとあらゆる昆虫について語られているのである。

ファーブルの昆虫記のダイジェスト版を以前読んだが、その時と同じような感慨に思わずふけってしまった。ただ内容が濃密であるだけにこの本は最後まで読むのに丸々2週間はかかったと思う。端折って読むことができない本だ。

 後半でもミシュレが再び登場し(歴史学の泰斗として著名だが虫の文献でこんなに度々登場してくること自体が驚きなのだが)、スズメバチをスパルタに、ミツバチをアテネミシュレが譬えるあたりはそれこそ一種の驚きだ。岩田久二『自然観察者の手記』も面白そうだ。

 最後の方に、蠅のことが取り上げられている。北ヨーロッパにいるセフェノミアという蠅の雄は瞬間速度時速1300キロメートル、ゆうゆうと音速を突破する、とあった。驚きである。

 いずれにしても、本書は、ストーリーを追うとかそういう類の本では全くない。一つ一つの昆虫について、一つ一つ丁寧かつ正確に、そして、ユーモラスに描こうとした本はそうざらには無いと思う。筆者の執念・集中力に敬意を払いたい。