歎異抄 金山秋男/現代語訳

2013年2月10日第1刷発行

 

作者は親鸞の晩年の直弟子唯円歎異抄の存在は江戸末期の研究によって知られるようになり、作者も判明。著名な本ではあるが、私にはまったく肌が合わない。

「前序」は第1章から第10章からなる。

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆへに」これが根本のようだが、うーん。と唸ってしまう。次に宗教と道徳・倫理は似て非なるものという指摘があるが、ここに至ると、正直ついていけない。まして自分の肉親へのこだわりを捨てることがそのまますべて同じいのちあるものを肉親として慈しむということにつながるという展開は普通理解できないことなのではないだろうか?全ては仏と人との関係にすぎず、師弟というのは仮の姿に過ぎないというのも同にも納得がいかない。そんなに頑張らなくてもいいという教えも私の価値観とは全く180度違う。

中でも「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり」とあるのは文字通りに理解すれば、一体どういうことを言おうとしているのか??となってしまうのではなかろうか。

「中序」は第11章から第18章からなる。世間の異説を批判する内容となっている。

真言や法華と、浄土との違いが説明されている。前者のこの身のままで悟りを開くという教えと彼の土の悟りとの違いがあるという対比になっているが、私の考えは前者の方だ。

「後序」は歎異抄の名前の由来が書かれている。

筆者によると、西田幾多郎臨済録歎異抄を大事にしていたそうだが、どうしてそうされたのか、時間のある時にじっくり調べてみたいと思う(親鸞の考えを理解するのに近道だという以上の意味があるのかどうか知りたいと思う)。