物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国 黒川祐次

2002年8月25日発行

 

ウクライナ大使による著書。

 表紙裏には「ロシア帝国ソヴィエト連邦のもとで長く忍従を強いられながらも、独自の文化を失わず、有為の人材を輩出し続けたウクライナ。不撓不屈のアイデンティティは、どのように育まれてきたのか。スキタイの興亡、キエフ・ルーシー公国の降盛、コサックの活躍から、1991年の新生ウクライナ誕生まで、この地をめぐる歴史を俯瞰。人口5000万を数え、ロシアに次ぎヨーロッパ第2の広い国土を持つ、知られざる『大国』の素顔に迫る」とある。ゴーゴリも、チャイコフスキーの祖父も、ドフトエフスキーの先祖もウクライナ出身だが、ウクライナの歴史を見ると、国がない民族の歴史といえる。国がないというハンディキャップをもちながらアイデンティティを見失わず、独自の言語、文化、習慣を育んでいったウクライナソ連崩壊後にようやく泉のように現れたウクライナウクライナに関心を持つ日本人を増やしたいと思って執筆したのが本書の動機だと著者はまえがきで述べている。  

 今回のウクライナへの侵攻をきっかけにこの本に対する関心も一気に高まっている。

 キエフの歴史は12世紀初頭に編纂された『原初年代記』という東スラブ世界の最初の古典文学に詳しい。それによれば、キー、シチェク、ホリフの3兄弟と妹ルイベジが町を作り長兄の名前にちなんでキエフと名付けられた。現在キエフ市には市の象徴として3兄弟と妹の群像が立っている。ハザール帝国後、キエフ・ルーシー公国のヴォロディ―ミル聖公とヤロスラフ聖公の黄金期を迎えキリスト教に改宗した。ヤロスラフの建てたソファイ聖堂は全公国の正教の中心となる。ペチェルスク修道院とともに世界遺産に登録されている。その後モンゴルの支配下で比較的平和な時代を送る。その後最初のウクライナ国家とも言われるハーリチ・ヴォルイニ公国が13世紀に1世紀近く存続し、ダニーロ治世の下で息子レフの名をとって西部にリヴィウの町を建設した。この町も世界遺産に登録されている。その後この国が消滅すると二度と独立国が現れることがなかった。当時のキエフは要衝の地であり貿易・商業が盛んで、ロンドンより都市化して人口が多かった。キエフの通貨の単位はフリヴニャと呼ばれ、ロシアの通貨ルーブルは切り取られたという意味なので、ウクライナ人は冗談半分にルーブルフリヴニャから派生しフリヴニャより小さいとからかっている。その後はリトアニアウクライナの地域の大半を治め、ポーランドが進出し、3世紀ほど空白が生じる。ポーランドルネサンスが勃興できたのはウクライナ地方の農奴への搾取が原因だとも指摘している。そしてこの時代にユニエイト(合同教会。ギリシア正教カトリックの折衷版)が誕生する。ロシアのレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれるロモノーソフキエフ・モヒラ・アカデミー(先駆者サハイダチニーの墓がある)で学んだ一人。ヘトマン国家の時代の次にロシア・オーストリアの支配を受ける。ウクライナ語の最初の文学作品『エネイーダ』が生まれ、その後ウクライナ語の最大の文学者とされるタラス・シェフチェンコの最初の詩集『コブザーリ』はウクライナ文学史上の最大の事件とされる(ウクライナの最高額の紙幣100フリヴニャ札には彼の肖像が描かれている)。元来肥沃な土地であるため大麦や小麦等の穀倉地帯であったが、19世紀後半は石炭の宝庫であることが分かり急速に工業化が進む。ガモフを始めとする多数の芸術家・学者を輩出している。

ペトログラード日本大使館の館員だった芦田均ウクライナを訪問し『革命前後のロシア』という回想録をあらわしている。ロシアでボリショヴィキ政権が樹立されると、中央ラーダ軍が支配していたウクライナを手中に収めようとして壮絶な戦いが始まる。第一次世界大戦ウクライナは独立を果たそうと長く戦うが結局独立は失敗する。独立は短期間に終わるがこの独立の記憶はウクライナに記憶として連綿と受け継がれていた。現在のウクライナの国旗、国歌、国章は1918年中央ラーダが定めた青と黄の二色旗、ウクライナはいまだ死なず(1865年)、ヴォロディーミル聖公の「三叉の鉾」であることからも、現代のウクライナ国家は自らを中央ラーダの正当な後継者と認識している。ウクライナソ連ポーランドルーマニアチェコ・スロバキアの4カ国に分割統治された後、スターリン時代が到来すると、スターリンは農民に猜疑心を抱き農業集団化を加速させ1928年に3.4%だったものが1935年には91%になる。集団化による混乱を招き飢餓に対応できずウクライナでは350万人が餓死したと文献に残っている。第二次世界大戦に突入するとウクライナは一層激動の時代を迎える。ドイツ、ソ連による占領が繰り返される。ヤルタ会談ウクライナベラルーシソ連と同じく国連原加盟国になる。第二次世界大戦キエフの中心部85%は破壊され、ロシア、ドイツ、フランス、ポーランドの物質的損害より大きい損害を被った。代償として領土と人口を獲得しソ連下のウクライナ共和国としてキエフ・ルーシー崩壊以後史上初めてまとまることになった。行政上の措置程度の軽い気持ちでクリミアがウクライナに移管されたのはフルシチョフ時代。ブレジネフ時代に反体制派の動きが強まりヘルシンキ宣言にソ連が参加したことによりソ連体制が内部から崩壊する原動力となった。

 ゴルバチョフ時代にチェルノブイリ原発事故が起こり、グラスノチスにより不満が噴き出る。共産党に代わり最高会議がウクライナを引っ張るようになると1990年7月ウクライナの最高会議は主権宣言を行う。クーデター失敗の直後の8月に独立宣言を行う。完全独立の是非を問う国民投票で90.2%が独立に賛成しこれによりソ連は事実上解体した。日本が国家承認したのは12月8日。20世紀に入って6回目の独立宣言だが、フメリニツキーの独立の夢から350年を経て遂に永続する蓋然性を持つ独立を平和裏に果たした。

 ウクライナは大国になる潜在力を秘めており、地政学的にも重要である。詩人エロシェンコの作品は小林多喜二らにより翻訳され、中村彝が『エロシェンコの肖像』を描いた。独立後日本との交流も本格的に開始した。とはいえまだ始まったばかりである。