日本人とユダヤ人 イザヤ・ベンダサン著

1970年5月10日初版発行 1971年5月15日23刷発行

 

 まずは、この本を真正面から一旦受け入れて読むことにしよう。

「あとがき」に、「互に交われば相互に理解できると単純に考えている日本人が余りに多い」とあるように、あるテーマで仮に同じ結論が得られたとしても、そこに辿り着く思考過程は国によって全く違うことがあり得るから、相互理解等と安直に考えるのを戒めている。

 冒頭の「1 安全と自由と水のコストー隠れ切支丹と隠れユダヤ人―」では、安全も水もタダで当然という感覚でいる日本人と安全にはコストが高くつくと考えるユダヤ人とを対比させ、地震・雷・火事・オヤジはどれも日本の一過性を表すものとしている。内なるゲットーと外なるゲットーと言ったユダヤ人国家の父ヘルツェルを引用して2000年以上も迫害の歴史を持つユダヤ人は議論好きだが日本と違って思いつめない、逆に日本は思いつめ集団であるが、それは安穏だからこそであると語っている。

 「2 お米が羊・神が四つ足―祭司の務めが非人の仕事―」では、日本のコメと西洋の羊は命の糧という意味では同じ、四つ足のけがれた動物を屠殺するのは日本では祭司の聖なる務めであった。アウシュヴィッツユダヤ人を思想というヴィールスを持った家畜であるとされたから焼き捨てられた施設であり、残虐行為ではないと考えられていた、という趣旨の記述があるが、これは果たしてどういうつもりの記述なのだろうか?

 「3 クローノスの牙と首―天の時、地の利、人の和―」では、人口85%農民の日本人は借入日時が決まっている以上、秒刻みの訓練を1千数百年にわたって訓練を受け続けてきたという、天の時、人の和を大事にしてきたのだから、遊牧民は日本人を理解できないし、日本人は遊牧民を理解できない、クロノス(時間)に殺されないために米を作り、米を作るためにクロノスに追いまくられる循環を繰り返してきた、そういうクロノスの牙と、クロノスの首に跳び乗って悠々としている遊牧民とを対比している。

 「4 別荘の民・ハイウェイの民―じゃがたら文と祝砲と西暦―」では、関ヶ原の戦いですら半日で終わる日本と常に戦場だったパレスチナを比較して、日本をお坊ちゃんと分析する。

 「5 政治天才と政治低能―ギカリヤの夢と恩田木工―」では、『日暮硯』の全文引用が長いが、要するに日本には人間相互の信頼関係の回復という基本的律法が根底にあり、それを外国人が理解することは困難である、それ故に日本を政治的天才とし、ユダヤ人を政治低能と規定する(ここは論理の飛躍が相当あるように思う)。

 「6 全員一致の審決は無効―サンヘドリンの規定と「法外の法」-」では、イエス時代のユダヤの国会兼最高裁判所のようなサンヘドリン(70人で構成)では全員一致の議決は無効とするという明確な規定があった。全員一致は偏見に基づくから免訴、あるいは興奮によるから一昼夜おいてから再審すべきということらしい。日本は反対で全員一致の議決は最も強く最も正しく最も拘束力があると考えられてる。その上で日本には人間的弁証法日本教の宗規があるという。すなわち決議は百パーセントは人を拘束せずという原則(法外の法)が日本にあり、法外の法とは人間味であるという。

 「7 日本教徒・ユダヤ教徒―ユーダイオスはユーダイオスー」「8 再び「日本教徒」についてー(その2)日本教の体現者の生き方―」、特に後者では氷川清話を引用しながら西郷隆盛日本教の生んだ偉大な殉教者であるが、人の生は短くやがて天に帰するから現世のことにのみ自己の生命を投入してはならないと考えた殉教であるから、終末が間近だから殉教できるというクリスト的宗教とは根本的な違いがあるとする。

 「9 さらに「日本教徒」についてー(その3)是非なき関係と水くさい関係―」では、ヨーロッパがキリスト教をうけ入れたとき、神を「契約神」(養子化した)と考え、律法を守りぬくことがイスラエル3千年の歴史を貫く根本的考え方であるが、日本では律法より人間味という日本人キリスト教徒はキリストの日本的理解とか聖書の日本的把握ということになり、両者は別物であるとする。

 「10 すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」―黙示的世界とムード的世界―」は、ロープシンの「蒼ざめた馬」とヨハネ黙示録の引用が長く理解が難しい。最初の「狭き門」は聖書と日本語とではまるで意味が違っているという譬えの方が分かり易い(聖書では体をよじるようにして入れる門は全く目につかないからこれを見つける人はほんとわずかだという意味らしい)。

 「11 処女降臨なき民―血縁の国と召命の国―」では、冒頭で処女降臨で誕生した人間は1856人もいる、西方の有名人はイエスプラトン、東方は清朝の始祖で、前者は2000年以上にわたって2人の精神的支配を、後者は300年にわたって子孫の支配をうけたのだから面白い、反対にそんな人間の存在を絶対認めない民族としてはユダヤ人と日本人があるとする。マルコ福音書ヨハネ福音書の内容には処女降臨は書いていないという。ユダヤ人ではないルカに処女降臨伝説は始まるらしい。ルカにより記された聖胎告知や天使の祝福が教会の伝記となっている。

 「12 しのびよる日本人への迫害―ディプロストーンと東京と名誉白人―」は結局何がいいたいのか良く分からなかった。著者は全く異なるが、六草いちかの「いのちの証言:ナチスの時代を生き延びたユダヤ人と日本人」という本がタイトル的に似ていたので(恐らく内容は全く異なるであろうが)今度読んでみようと思う。

 「13 少々、苦情を!-傷つけたのが目なら目で、歯なら歯で、つぐなえ」では、日本人は殴られたら殴り返せという意味に取るが、原典から意味を忠実にとるなら、損害を与えたら他だしく損害賠償せよ、という意味である、とする。

 「14 プールサイダーーソロバンの民と数式の民―」では、日本人の思考の型はソロバン型で西欧人の思考の型は数式的である、したがって日本人は結論を出すのではなく、出る、とする。これを完全に習熟した人の、目にもとまらぬ早さで出したものが、いわゆる「カン」であろう、こういう場合、カンが出てきた過程を説明してくれといっても無理である、とする。

 「15 終わりにー3つの詩」では、『サムエル記』「弓の歌」、『イザヤ書』「苦難のしもべ」、『雅歌』を引用するが、なじみがなく、理解が難しい。

 ネットによると、イザヤ・ベンダサン山本七平ペンネームであるという説が有力で、発行当時300万部の大ベストセラーだったらしい。