非暴力の人物伝1 マハトマ・ガンディー/阿波根昌鴻 支配とたたかった人々 たからしげる 堀切リエ

2018年7月13日第1刷発行

 

マハトマ・ガンディー インド独立を非暴力でかちとった

 序章 サティヤ―グラハとは

    サティヤーは「真実」、グラハは「つかむ」。サティヤーグラは非暴力・不服従のこと。

 1 少年時代 1869年10月2日生まれ

    ラーマーヤナに影響を受けて父や母を大切にする息子になろうと心に誓う。

    13歳で結婚し18歳でイギリスへ単身留学。

 2 南アフリカ

    1891年ロンドンで弁護士の資格を取るが、人前で話をするのが苦手だったため、初めての法廷で相手側証人に反対尋問しようとしたとき誰もが笑ってしまうほどの惨めな結果に終わる。代金をそっくり依頼人に返して法廷から逃げるように姿を消す。

    そんな時に南アフリカ連邦の現地会社の顧問弁護士の話を受けて1983年に南アフリカに旅立つ。ところが道中の汽車、ホテル、住居で悉く差別を受けて現状を変えるために立ち上がる。この時暴力に対して非暴力・不服従による抵抗運動を始める。

 3 インドへ帰る

    21年後に祖国インドに帰った時、46歳。チャルカを独立運動のシンボルにして抵抗運動を始める。ところが1919年4月13日、アムリットサルの悲劇が起こる(イギリス軍が抗議集会に集まった無抵抗のインド人を無差別に射殺)。

 4 塩の行進

    暴力には暴力で対抗しようとするインド人に対し、ガンディーは「仲間や身内を殺されて、相手をやつざきにしてやりたいという気持ちはわかります。しかし、敵をゆるすことは、敵を罰するより、ずっと気高い行為だということを、どうか忘れないでほしい」「暴力によって真理を普及させることはできません。自分たちの目標が正しいと信じる人たちは、無限の忍耐をもたなければいけません。そうした人たちだけが、明らかに罪となる不服従に走ったり、暴力にうったえたりすることなく、市民としての不服従をなしとげることができるのです」「力は、腕力からではなく、不屈の意志から生まれます」などという言葉を書いて新聞に載せる。

   しかし暴動は治まらず、一たびはガンディーはサティヤーグラハ運動の中止を宣言。熟慮の末に1930年3月12日、60歳になっていたガンディーは潮の行進を開始する。はじめは78人の参加者で390キロの道のりを歩き始めた。次第に参加者が増え列の長さは3キロにまで達する。

 5 インド独立と暗殺

    遂には500万人もの人々が参加し、鎮圧にうごいたイギリスは数週間のうちに次々と逮捕して10万を超える人々を刑務所に入れる。ガンディーも繰り返し逮捕される。

    1947年8月15日、インド独立が遂に実現するも、パキスタンと対立。

    1948年1月30日、狂信的なヒンドゥー教徒の凶弾に倒れる。

    初代首相のネルーは「これほど長く、この国を照らしてくれたバプーの光は、これから先も長いあいだ、おそらくは1000年先でもなお、わたしたちの国を照らしだしてくれるのではないでしょうか」とラジオ番組で話す。

 

阿波根昌鴻 「命こそ宝」をかかげ基地に反対した

 序章 沖縄のガンディー

 1 とにかく勉強がしたかった

    1903年沖縄県北部の上本部村で生まれる。

    20歳を過ぎてキューバ、ペルーで苦労しながら働き、15年後に沖縄に戻る。

    西田天香『懺悔の生活』に影響を受け、西田に諭されて沼津の興能学園で1年程学び沖縄に帰る。沖縄で農業学校をつくる。

 2 土地をうばった米軍

    終戦後、沖縄本島にやってきた米民政府による土地調査の際、調査の手伝いにお礼に払うからハンコを押してくれと言われてハンコを押したら退去するという書類にハンコを押させられていたのに後で気づく。強制的に土地を奪われるものの、昌鴻たちは米軍と戦い続けるための決まりを作る。

   1、怒ったり悪口を言ったりしないこと。うそや偽りを言わないこと。

   2、米軍と話をするときは、何も持たないで、すわって話すこと。

   3、耳より上に手をあげないこと。

   4、大きな声を出さず、静かに話す。

   5、人道、道徳、宗教の精神と態度で接し、道理を通してうったえること。

   (1954年10月13日 要約)

 3 人間としてのたたかい

    米軍は結局10万坪の土地を焼き尽くし爆撃の演習場をしてしまう。それでも粘り強く反対運動を続ける。

 4 米軍との根くらべ

    乞食のような生活も厭わず、沖縄本島でもデモ行進を行い、1961年には「伊江島 土地を守る会」ができて昌鴻は代表に就任。島の青年たちに教育を受けさせるために青年たちを東京の中央労働学院(現在の東京文科アカデミー)に送る。ベトナム戦争反対の声画大きくなる中、1963年、昌鴻自ら中央労働学院に入学して講義聴講し31冊のノートをとりつづけた。1967年、米軍演習地入口い「団結道場」の建設をはじめ、1970年に出来た道場の壁には「米軍に告ぐ 土地を返せ ここは私たちの国 私たちの村 私たちの土地だ(略)

 剣をとるもの剣にて亡ぶ(聖書) 基地を持つ国は基地にて亡ぶ(歴史)」と書いた。

 5 命を生かしあう道

    1972年、沖縄復帰。1984年「わびあいの里」、「やすらぎの里」、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を作る。2002年3月21日、昌鴻は100歳で亡くなる。