非暴力の人物伝5 平塚らいてう/萱野茂 女性・先住民の権利をもとえた人びと 濱野京子 寮美千子

2019年3月15日第1刷発行

 

平塚らいてう 女性の権利と平和をもとめた

 序章 原始、女性は太陽だった

     『青鞜』発刊のことば

      原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。

      今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような

     蒼白い顔の月である。

      さて、ここに「青鞜」は初声を上げた。

      現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。

      女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。

      私はよく知っている。嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。

      (中略)

      烈しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である。

 1 おいたち 1886(明治19)年2月10日、麹町生まれ 本名は明(はる)

 2 青春時代 父から東京女子高等師範学校附属女学校に行くよう告げられて従う

        成瀬仁蔵『女子教育』の影響を受け日本女子大学校英文科に進みたかったが父に反対され家政科に進学。卒業後、女子英学塾(津田塾)で英語、二松学舎で漢文を学ぶ。成美女子英語学校の生田長江の課外授業で閨秀文学会で森田草平と出会い、心中に失敗し日本女子学校の校友会から除名される。

 3 『青鞜』の誕生 生田から勧められて女性だけで文芸誌を発行するプロジェクトを保持研子、中野初子、木内錠子、物集芳子の5名でスタートさせる、ブルーストッキングは、英ロンドンでモンターギュ夫人のもとで文学や芸術を語り合っていたサロンの名前。この時に「らいてう」と記す。与謝野晶子の詩の冒頭「山の動く日来る。かく云えども人われを信ぜじ。山は姑く眠りしのみ。その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。されど、そは信ぜずともよし。人よ、ああ、唯これを信ぜよ。すべて眠りし女今ぞ目めて動くなる。」

    創刊の翌年に奥村博と事実婚。『青鞜』に「独立するに就いて両親に」という手紙を載せる。

 4 新婦人協会の設立 スウェーデンの女性解放思想家エレン・ケイの「母性主義」の主張を拠りどころに与謝野晶子山川菊栄との間で「母性保護論争」が繰り広げられる。

1920(大正9)年に新婦人協会を設立し、理事はらいてう、市川房枝奥むめお。機関紙『女性同盟』を発行。路線対立のため2年で協会は解散。

 5 平和を願って 終戦後、1953年に日本婦人団体連合会が結成され、初代会長に。スイスジュネーブの国際民主婦人連盟に加盟し副会長を務める。日本母親大会(1955年)は現在も年1回開かれている。1955年「世界平和アピール七人委員会」結成(らいてうの外、湯川秀樹も委員に加わる)。

 

萱野茂 アイヌの文化と権利を国会でうったえた

 序章 国会にひびいたアイヌ語 1926(大正15)年、二風谷生まれ。国会議員としてアイヌ語で演説。

 1 北の先住民アイヌ 2 二風谷の少年 3 アイヌ嫌いのアイヌ 4 学者たちとの出会い(知里真志保金田一京助) 5 博物館と資料館の建設 6 町会議員から国会議員へ(旧土人保護法の廃止とアイヌ新法の成立を訴える)

  国会図書館には茂が書いた87冊の本がある。アイヌ語の辞書も作る。アイヌ文化の露文を書き、大学から博士号を授与される。二風谷アイヌ語塾を開く。

 

 恥ずかしながら、萱野茂さんのことは知らなかった。たいへん勉強になった。