ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はなぜ傑作か?―聖書の物語と美術 高階秀嗣

2014年8月6日初版第一刷発行

 

帯封「いかにして愛を描くか 聖書の物語を、巨匠たちはどのように描いてきたか?名画の中に息づくキリスト教の世界を読み解く!」「ヨーロッパ社会において2000年以上にわたり、人々の日常生活や精神活動の礎となってきたキリスト教レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロ、フラ・アンジェリコティツィアーノレンブラント、モロー、マネらの巨匠は、聖書の物語をどのように描いてきたのか?数多くの美麗な図版を用い、ヨーロッパ美術の中で時代を超えて受け継がれてきたイメージの歴史をたどる!」

表紙裏「ヨーロッパ社会において2000年以上にわたり、人々の日常生活や精神活動の礎となってきたキリスト教は、多くの名画を生み出す源泉となってきた。ヨーロッパ美術の歴史の中で、聖書の物語がどのように描かれてきたか、名画のなかに聖書がどのように息づいているのかを読み解き、数多くの美麗な図版とともに、わかりやすく解説。」

 

同じようなタイトルの絵画がたくさんある。今まで何とは何に見ていたが、実は眺めていただけであって、絵画を読み解くという姿勢で絵画に向かっていなかった自分を発見できた。聖書に対する関心はそれほど持ち合わせていなかったが、絵画がいかに聖書の内容を分かり易く伝えようとしてきたのかという視点を有名かつ具体的な絵画を通して丁寧に解説してくれている。この本にもっと早く出会えていればなあ、と思うくらいに西洋絵画入門書としては傑出の一冊だと思う。

 

第1章 天地創造 ミケランジェロ

    ヴァティカン宮システィーナ礼拝堂の内部の大きな天井(創世記と天地創造・左右の壁・正面の壁(最後の審判)に描かれた有名な絵だが、全図とその中に位置づけられた個々の細部を詳しく説明してくれている。これにより旧約聖書の「創世記」「天地創造」の理解が非常に深まった。

 

第2章 アダムとエヴァ マザッチョ

    マザッチョ、アルブレヒト・デューラーラファエロ、ルーカス・クラナッタ、ヒューホ・ファン・デル・フースが描いた「アダムとエヴァ」。今まで漫然と見ていたが、何がどう違うのか、そしてどうして違いがあり、その違いにどういう意味があるのかを読み解いていくところに面白さがあるのだということを改めて知った。

 

第3章 水浴のスザンナ ティントレット

    スザンナの描き方とともに2人の長老の描き方がアルテミシア・ェンティレスキ、ルーベンス、ミレー、レンブラント、ミッシェル・ドリニーで全く違っていた!

 

第4章 バテシバの不倫 レンブラント

    レンブラントの描いた「バテシバの水浴」に登場するバテシバの顔は、王の手紙に対してためらう人妻の心の葛藤が見事に表現されている。クラナッハの「ダビデとバテシバ」は服を着ているし、これをもとにピカソは「ダビデとバテシバ」の版画をつくった。ラファエロ工房でも「ダビデとバテシバ」が描かれる。「バテシバの水浴」は、ほかにも、パリス・ポリドーネ、ルーベンス、セバスティアーノ・リッチのバテシバも描いているが、全て描き方が全く違う。ビショップ、フリンク、フランチェスコ、サルヴィアーティも同様。

    ちなみにダビデの彫刻については、ミケランジェロが有名だが、ドナテッロやヴェロッキオの彫刻も、同じダビデの彫刻であってもまるで違う(後ろ二つはゴリアテの首がいずれもはねられている)。

 

第5章 「雅歌」とサメロの踊り モロー

    旧約聖書の雅歌は、「ソロモンの雅歌」と称され、モローが描いた雅歌はソロモンの花嫁を表しているという解釈もあるらしい。「ソロモンの審判」もラファエロ工房、二コラ・ブッサンで構図がかなり違うし、シバとソロモンを描いたフランチェスカとギベルティでは構造が全く異なる。「キリストの磔」(マティアス・グリューネヴァルト)、「キリストの洗礼」(ダ・ヴィンチ)、「ヘロデの宴」(フィリッポ・リッピ)とペノッツォ・ゴッツォリ、ティツィアーノクラナッハ、モロー、アンリ・ルニョー、フランツ・フォン・シュトックでは、サメロの描き方が全く違う。

 

第6章 受胎告知 フラ・アンジェリコ

    大原美術館で見たエル・グレコの「受胎告知」しか記憶になかったのだが、フラ・アンジェリコ、シモーネ・マルティ―二、リッピ、ロベール・カンパン、アントニアッツォ・ロマーノ、ティントレット、ダ・ヴィンチ、ロテンツォ・ロット、アンドレア・デル・サルトがそれぞれ描いた、マリアと大天使は同じコンセプトであり同じ要素(マリアの服の色や光輪など)を用いてはいるものの、マリアの手の描き方や読みかけの小説など、それぞれ独自の解釈の下で描かれているということを初めて知った。そのほか、マッテオ・デ・ジョヴァンニ、フリーピーノ・リッピ、ティツィアーノの「聖母被昇天」にも明確な違いがある。

 

第7章 「最後の晩餐」はなぜ傑作か? レオナルド・ダ・ヴィンチ

     ダ・ヴィンチ以外にも、ラヴェンナ、聖務日課書、ジョット、アンドレア・デル・カスターニョ、ドメニコ・ギルライダイオ、コジモ・ロッセリ、バオロ・ヴェロネーゼ、ティントレット、ピーテル・クック・ファン・アールストがどうやってユダを描き分けようとしたかを解説した後で、ダ・ヴィンチはイエスの口元が開いた場面を描いていることから、裏切りについて告げた場面を描き、その衝撃が池に投げ入れられた石のように広がっている様子が描かれるとともに物語の中心であるイエスの内面(明日には磔刑に処せられる自らの定めを自覚したイエスの内面に広がる静寂感)が人類への愛に満たされていることの表れとして表現されていると分析している。

 

うーん。いままで如何に浅い絵の見方をしてきたのだろう・・・。もう一度、勉強のし直しだ。