ボオドレエル詩集 齋藤磯雄訳

昭和38年9月10日初版発行 昭和53年1月20日15版発行

 

訳者後記によると、『悪の華』『漂着詩篇』『悪の華・補遺』から半ばを超える詩篇を撰んでこの書に収めた、とのこと。惡の華は36歳の作品。風俗壊乱の容疑で起訴され、ボオドレエルは敗訴する。ユゴオは有罪宣告の翌日「貴下は最近、現政府の与へ得る珍奇な勲章の一つを受取られました。現政府が裁判と称するものは、その道義と称するものの名に於て貴下を処罰しました。これこそ更に一つの王冠を加へるものです」と書簡を寄せて励ました。ボオドレエルはおよそ文学に関心あるあらゆる国の言語に翻訳され、殆ど全世界に読まれてゐる。『惡の華』は極めて異常な性格を帯びてゐる。一見単純明快な詩句も恐ろしいほど複雑な要素を含んでいる。ヴァレリイはボオドレエルの異常な栄光の秘密は詩魂と結びついた批評精神に在ると断じ知性によって処理された感情、数学と組み合わされた神秘性、等々の斬新な方法を指摘した。『惡の華』の表面のわかりやすさは罠であり、この意味では恐らくボオドレエルの難解は後の象徴派に劣らない。首尾一貫せる意図、秘密の建築とは、端的に「原罪の詩的表現」といへるやうに思われる。『惡の華』は審美上の最も精緻な要求をも満足せしめると同時に、モラルの最も深刻な検討にも堪へる稀有な藝術作品の一つである。

 

訳者のような前提で読むことはまだ到底できないが、それでも次の詩篇は私なりに気にいった。

 

 美

 

われは美し、人間よ、あたかも似たり、石の夢。

ひとこもごもに来りては創痍負ふなる、わが胸は、

物質のごと不滅なる、無言の、愛を、詩人の

心のなかに燃さむに、ふさわしくこそ作られてあれ。

 

われ蒼穹に君臨す、さながら謎のスフィンクス

雪の心を、白鳥の真白き色に、結ぶわれ。

線を移して搔き擾す、物の動きを憎むわれ。

而してわれは、永久に、いかなる時も、哭かず、笑はず。

 

傲然と立つ記念碑の姿を倣ぶかに見ゆる

わが堂々のたたずまひ、打眺めつつ詩人は、

骨身を削る研鑽に、その歳月を使ひ果さむ。

 

そは、かくばかり素直なる恋人たちを魅すに、

万象の美をいよよ増す、澄める鎧をわれ有てばなり、

これぞわが眼、永遠の光芒を放つ、大きなる眼(まみ)。

 

 

 声

 

私を入れた揺籃は大きな書架に凭れてゐたが、

この仄暗いバベルの塔には、小説、科学、寓話詩と、

拉甸の杯と希臘の埃が、すべて、混じってゐた。

当時私の身の丈は、イン・フォリオ本ほどもあったか。

二つの声が囁きかけた。一つは、狡く、きっぱりと、言ふ、

『この世の中は美味しく堪らぬやうなお菓子だゆお、

それをすっかり食べきるほど、おまへのお腹を空かせてやらう、

(そしたらおまへの楽しみは、いつまで経っても終わるまい。)」

するとこれとは別の声、『おいでよ、おいで、夢の旅へと、

あり得るものの、その向む、知られたものの、その彼方へと。』

その声は、浜辺の風をさながらに歌ひさざめき、

何処からとなく現れて、泣き訴へる亡霊のやう、

快く耳をあやすが、何かしら恐い気もする。

この声に私は答へた、『うん、行かう、やさしい声よ』と。

 

この時からだ、あはれ、私の創痍とも、また悲運とも

謂ふべきものが、始まったのは。この広大な人生の

舞台装置のその背後、黒洞洞たる淵の底に、

不思議なる世界が、ありありと、私の目には見えるのだ。

かうして、心も蕩けるやうな、わが慧眼の、犠牲となって、

私は、鞄に咬みついて来る蛇どもを曳きずってゆく。

そしてまた、この時からだ、預言者たちも斯くやとばかり、

ひたぶるに優しさこめて、荒野と海とを愛でるのは。

哀傷のさなかに笑ひ、歓楽のさなかに泣いて、

こよなく苦い酒の中にも甘露の味を探り出すのは。

いとも屡々、現実を嘘いつはりと見做したり、

眼は空を仰ぎつつ、穴の中へとはまり込むのは。

けれども『声』は、慰めて言ふ、『おまへの夢を失うな、

賢い者は痴人ほど、見事な夢が見られぬのだ』と。

 

 時計

・・

人の生命の春と夏、秋また冬の歓楽を、

刻一刻は、汝より、一齧りづつ啖ひ去る。

 

「秒」は囁く、一時間実に三千六百回、

忘るる勿かれ、忘るな、と。―虫の声もて早口に、

「現在」は云ふ、われはこれ、呼べど返らぬ「過去」なり、

わが穢れたる吸い吻もて汝が生命を吸ひ尽せり、と。

 

わするるなかれ!わするるな!汝、浪費者、わするるな!

(金属製のわが咽喉はなべての言語を操るなり。)

戯れ遊ぶ浮薄の徒よ、刹那刹那は母岩なり、

小金を採取せずしては、断じてこれを手放すな。

 

忘るる勿れ、「時」こそは、欺瞞もあらず、常に勝つ、

貧婪飽くなき博徒なるを。これぞ不易の掟なり。

いつしか昼は減じゆき、夜は増しゆく、忘るるな。

深淵は不断に渇ゑたり、漏刻の水は涸れてゆく。

 

程なく時鐘の鳴りわたり、神と崇めし「偶然」も、

汝が妻なれど処女なる、風情﨟たき「徳行」も

「悔恨」さへも(あな哀れ、こは最終の宿舎なり)、

死ね、老いぼれの卑劣漢万事休す、と汝に叫ばむ。