もうすぐ死に逝く私からいまを生きる君たちへ 水谷修

2022年10月15日初版第一刷発行

 

はじめに

 今から30年前、横浜市立高校の名門進学校で社会科の教員として幸せな生活をしていた水谷氏は、都立夜間定時制高校の教員をやっていた友人から電話で相談を受ける。荒れた夜間定時制高校の生徒はすさんでいた。友人に厳しい言葉をかけて自分が夜間定時制高校に行くと啖呵を切ったものの、その後友人は教壇を去り15年前に病で亡くなり弔問を訪れると妻から会ってほしくないと断わられる。熱心に教育を語り実践したい教員もいれば、普通の教員として限られたことであっても自分のできることをして日々生きていたいという教員もいる、夫はあなたを許していなかったと。

 定時制高校で人間関係を作らないと授業にならないと思って始めたのが夜回り。夜10時に出発し家庭訪問を繰り返し、一人でも多く昼の世界に戻そうとし続ける水谷氏。いまや1万3000人を超える頼りになる若者や大人がいるという。水谷氏が支援する3か所の児童養護施設、薬物を乱用した十代の子供たちのための6か所の更生施設、3か所の農園。それらを彼らが支えてくれている。

 水谷氏は、いう。「私は、ある意味で寂しい人間です。大人の社会では、いつもまわりに溶け込むことができなかった。そのため、孤立していました。その理由は、簡単です。私は、不正や噓を許すことができなかった」と。

 あまりに熱き想いをそのまま行動に移すことの出来る、水谷氏のような真似はできない。

 それでも水谷氏の本物の優しさに触れて、優しさを思い出し、どういう生き方をしていくべきなのか、わが身を振り返るうえで、とても感動的な一冊です。時に水谷氏の講演がテレビの映像で流れ、その都度、大変感動するが、その感動を維持することはできない。時に水谷氏の本を開き、自分を見つめ直し、優しさを取り戻しながら、生きていこうと思う。

 

 ドラッグで命を失う子供たち。どうしてドラッグに走ってしまったのか。極度の貧困からいじめにあい、ドロップアウトして薬物に手を染め、ボロボロになっていく。ダルクの存在を知ってドラッグと戦い続ける水谷氏。ダルクの創設者・近藤恒夫自身がかつて覚せい剤乱用者らしく、後輩を救うためにダルクを立ち上げ、ドラッグと戦い続けたその近藤氏も今年2月27日に亡くなった。

 夜間定時制高校での最初の入学式で出会ったシンナーから抜け出せない生徒を自宅に招いて何度も支援し続ける水谷氏があるときカッとなって追い払ったその日の深夜、シンナーを吸ってダンプカーに飛び込んで即死した。教員をやめようと思っていた時に目にした新聞記事に出ていた病院を訪ねると、依存症という病気を愛で治そうとするのは間違い、専門の医師が治すものだ、あんたが殺したんだと言われて、この時からドラッグとの戦いが始まったと述懐。

 

 水谷青少年問題研究所に届くメール・電話はひっきりなし。メールは延べ103万。かかわった若者たちの数は53万人を超えた。夜眠れない子供たちを救うために、「一人の子どもも死なせない」を合言葉に365日、24時間、スタッフが命がけで戦い続けている。

 優しさで満ち溢れた社会(クラス、学校、地域)であるために、独りぼっちでいる姿を見かけたら、「何かあったの?」「どうしたの?」と声をかける勇気と優しさを持ってほしい。そうなればどれだけの子どもたちが、仲間たちが救われるか。

 20代のころに5年間、養護学校高等部で教えていた時、汚物を洗い流すためにシャワーをお尻にかけると、「ギャー」と。冷たい水をかけていた。先輩から頬を殴られ、「この子は君を信じているんだよ」と声をかけられ、同じ目の高さで子供と共に生き合うことの大切さを学んだという。「みんな違って、みんないい」。障がいも個性の一つ。

 最後に、「亜衣」の話をして終わる。すべての講演で必ず話をすると約束した。夜の世界に落ちた少女の亡くなる姿を、事実に忠実に、しかし壮絶な死にざまを語る。そして口を開けて待っている夜の世界の入り口に決して落ちることなく、昼の世界で素晴らしい花を咲かせてほしいと訴える。

 そして、本当の最後で、沖縄戦でガマの中で赤ん坊を救おうと、歩ける子供たちすべてがお父さん、お母さんの真似をして、12名の赤ちゃんを救った話を通して、「いのちの糸」を絶やさないでほしいとお願いをして、話を終える。

 

 涙なしには、読めない。本当に、なんという、凄い人なんだろう・・・