いのちの食べかた 森達也

2004年11月19日初版第1刷発行

 

「第2章 お肉はどこからやってくる?」は、屠場で牛や豚がリアルに切り刻まれていく様子を描写する。そこで仕事をする人たちがいて、牛や豚を育ててくれる人がいて、我々は毎日お肉を食べることができる。でも普段はスーパーで白いパーケージに入ったお肉を見ているだけなのでどうやってお肉になるのか考えもせず思考停止状態でお肉を食べている現代人の思考を嘆く。毎日いつもいつもこんなことを考える訳にもいかないが、時にはふと立ち止まって、普段考えないことを考える、知る、感じる、こういうひと時を持つことはきっと大事なんだろうと思う。

ウサギをなぜ一羽、二羽と数えるのか、など、普段全く考えもしなかったけれど、牛や豚の食が禁じられている時代に鶏は許されていた。だからウサギも鶏扱いされて一羽、二羽と数えられていた、なんてことは知らなかった。子供向けの書籍だが、大人が読んでも十分面白い。

穢多非人という身分差別は実は幕府による巧みな差別制度であることも教えてくれている。

穢多を非人の上に置きながら穢多は子孫代々その身分からは抜けられないとした上で非人は一定の条件を満たせば農民や商人にもなれるとの仕組みにした。これにより穢多は序列を根拠に非人を蔑視し、非人は農民や商人に戻れる自分たちを穢多より上だと考え、互いにあいつらよりはまだマシだとする感覚を持たされ、ますます身分制度が強固なものとされた。差別は差別に連鎖すると著者はいう。人間の最も弱く最も醜く最も切ない部分だとも。

島崎藤村の『破壊』や狭山事件を通じて、著者は部落差別が現在も続いていると述べる。

戦争責任について騙した者にも騙された者にも責任があると考える著者。日本人全員の責任だと述べる伊丹万作映画監督のエッセイを紹介しながら、気づかぬうちに無意識に目をそらしている現代人に、見つめよう、知ろう、そうすれば差別もなくなる、戦争だってきっとなくなる、と結論づけている。

 

 見つめること、知ること、ともに大事だと思う。でも、知っている、だけでは、差別も戦争も、なくならないと思う。声を上げること、行動を起こすことに繋げなければいけないと思う。