潮鳴り 葉室麟

平成28年5月20日初版第1刷発行

 

裏表紙「俊英と謳われた豊後羽根藩の伊吹櫂蔵は役目をしくじりお役御免、いまや“襤褸蔵”と呼ばれる無頼暮らし。ある日、家督を譲った弟が切腹。遺書から借銀を巡る藩の裏切りが原因と知る。弟を救えなかった櫂蔵は、死の際まで己を苛む。直後、なぜか藩から出仕を促された櫂蔵は、弟の無念を晴らすべく城に上がるが…。“再起”を描く、『蜩ノ記』に続く羽根藩シリーズ第2弾!」

 

中々、心の奥深くに染み入るお話です。久々に歴史小説で感動しました。

中でも、身を持ち崩した櫂蔵が酒を浴びるように飲んでいた飲み屋のお芳の生きざまがグッときます。武士に捨てられ捨て鉢になったお芳が、一度落ちた花が咲くことはない、と金さえ出せば一夜の共寝もする女であった自分の過去と決別し、櫂蔵が再起しようとする姿と自分を重ね合わせてまっすぐにひたむきに生きようとする姿は健気で美しい。クライマックスは、そんなお芳を騙し、再び手籠めにしようと、どす黒い罠を仕掛けた極悪人の武士の魔手から逃れるためには自身の命を棄てて櫂蔵とその継母の名誉を命がけで守り抜く。その姿に思わず涙を禁じ得ない。

当初は櫂蔵の嫁として一切お芳を認めず女中としても眼中に入れない継母のお芳への厳しく辛い態度はしばらく続くが、お芳が女中として懸命に働き、継母が病に臥せった時などは真心の粥を作る。お芳は自分の過去も継母に洗い浚い伝えた上で嘘だけはつかない生き方を貫いている心情を吐露し、そのお芳の心が本物であることがわかると、継母は女中として認めるようになり厳しく躾け、最後には櫂蔵の嫁として迎えるために生け花を教授し、お芳を誇りに思うとまで言うようになる。この時のお芳の心中を察するに、不幸のどん底からようやく少しながらでも這い上がることができた喜びを心底味わったことと思う。そんな継母も嘘をつかずに生きてきた芯の強い女性であった。

もう一人の脇役の咲庵も、なかなかキャラが立つ。昔、江戸の越後屋の大番頭を務めていたが、俳諧の道にのめり込み、妻子を捨ててお芳の飲み屋で櫂蔵と出会う。櫂蔵が再起を決意したときにお芳と咲庵は櫂蔵の助っ人となり、櫂蔵の弟が自害するよう仕向けられたことへの櫂蔵の復讐劇と羽根藩改革のために大いに力量を発揮する。

では、弟はなぜ自害し、櫂蔵が弟の死を契機に再起を誓ったのか。

櫂蔵の後の家督を継ぎ、新田開発奉行並に取り立てられた弟が久しぶりに襤褸蔵を訪ねてきて、家伝の品を処分して300両のうち3両だけを置いていった。その弟が切腹し、遺書に日田の掛屋から新田開発の名目で5千両を借りたが、その銀借が目的のために使われず藩主のために使われてしまい、その責任を取らされた真相が書いてあった。弟が置いていった3両は、襤褸蔵は、とっくに酒と博打で一晩で使い切ってしまい、弟の遺書を読んで泣く。そんな矢先、国許の勘定奉行の井形清左衛門が櫂蔵を訪ね、再度の家督と新田開発奉行並での出仕を打診する。この井形こそお芳を騙した張本人であった。櫂蔵は日田の掛屋・小倉屋を訪ねて真相を探る。弟が借銀した理由が藩財政改革のために安く出回る唐輸入の明礬を輸入停止し藩の明礬で財政を潤うようにするためにあることを知り、その資金が目的に沿って使われずに詰め腹を切らされたことを知り、櫂蔵は咲庵とお芳に協力を求め、特にお芳には妻となってくれと乞い、ここから櫂蔵の再起ドラマがスタートする。

櫂蔵が出仕すると、井形の息のかかった小見陣内のほか、長尾四郎兵衛、浜野権蔵、重森半兵衛の3人がおり、殆ど仕事をしない。20歳過ぎの笹野信弥は山廻りに出て不在。帳面を点検した咲庵は藩のお金の流れに不審を抱き、中でも博多の商人・播磨屋に疑問を抱く。

櫂蔵と咲庵は、播磨屋を訪ね、かまをかけると、なんと明礬のことを知っていたのである。

陣内を除く新田開発方の全員が、実は藩主の吉原通いなどの乱脈ぶりを見かね諫言すると左遷させられた経歴を持ち、弟の財政改革に賛同し、今また櫂蔵が弟の遺志を継いで財政改革のために立ち上がることに賛同する。櫂蔵は5千両の行く先を探るべく博多の播磨屋にゆさぶりをかけ、その後、長崎に渡った咲庵の息子から、唐明礬を扱っている長崎の商人は皆、播磨屋の息がかかっていることを聞き、弟の動きを封じる必要があったのは播磨屋であり、播磨屋に5千両が眠っていることを確信する。

ところが、そんな矢先、お芳は、陣内から呼び出され、井形のいる部屋に連れ込まれ、伊吹家を守るためには井形の脇差を己の胸に突き刺すしかなく、虫の息となってしまう。大急ぎで屋敷に戻った櫂蔵をひと目見て、お芳は亡くなってしまう。継母は藩主の母・妙見院に拝謁し、井形の非道を訴え、これが最後の場面で大いに生きる。

播磨屋から金の返済を迫られた藩主は、5千両を播磨屋に移動させるよう井形に指示したが、その途中、櫂蔵らは、日田郡代配下の立会いのもと、運ばれた5千両は小倉屋の5千両であることを証拠を突き付けて確認して取り返す。

最後の場面では、播磨屋を楽しませるために能の場に読んだ藩主だったが、そこに妙見院が現れ、お芳の死と借銀が消失した件を詮議せよと迫られ、そこに櫂蔵も現れ、全ての真相が明らかとなる。井形は閉門、藩主は隠居する。櫂蔵は、勘定奉行に登用され、唐明礬の輸入停止を願うために江戸に向かおうとするところで、潮鳴りとともに心の中でお芳の励ましの声を聞く。ここに再起のドラマが完結する。何とも心に染み渡るいい話でした。