100分de名著ブックス 『ツァラトゥストラ』ニーチェ 君の手で価値を育てよ 西研

2012年3月25日第1刷発行 2020年12月10日第9刷発行

 

表紙裏「神は死んだー。既存の権威と価値観を痛烈に批判した19世紀の哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、神による価値づけを失った人間がどう自分の生を肯定すべきかを考え続けた。己の境遇をどのように受けとめ、いかに力強く創造的に生きるかという彼の生涯の問いは、時代を越えて、いま私たちの深い共感を呼ぶ。二大思想『超人』『永遠回帰』を軸に、『ツァラトゥストラ』の書に込められた『悦びと創造性の精神』を紐解く。」

 

はじめにー人間は“創造的”に生きよ

信じられる価値を見失い、何を信じてよいかわからないニヒリズムの世の中で、人間はどうやって生きていったらよいかをテーマに、「固定的な真理や価値はいらない。君自身が価値を創造していかなくちゃいけない」と提案したニーチェ。聖書のパロディとして書かれたかもしれないと著者はいう。

 

第1章 ルサンチマンを克服せよ

ニーチェルサンチマンこそがキリスト教、「神」を生み出したと考えた。これを著者は分かり易く、ユダヤ人は貧しさにあえぎつつ、権力と富を持つローマ人や王族を憎んだが、現実において彼らに勝つことができないので、彼らは復讐のために神を作り出した。

「善/悪」の僧侶的価値ではなく、「カッコいい、おもしろい、わくわくする」という貴族的価値の方へ。人は固定的な善や真理を守って生きるのではなく、みずから創造性を発揮していかねばならない。その意味で、ニーチェは「まさにいまこそ価値は転換されねばならない」と考えていた、と解説する。

 

第2章 「神の死」から「超人」へ

 民主主義も社会主義も科学技術の発展も、創造性をめざるのではなく「安楽状態」をつくろうとしている点で、それらはキリスト教と同じ穴のムジナだとニーチェはいう。但し著者は人権と民主主義という近代の思想を安楽という点で批判するのは間違いだと指摘する。

 これらに対抗させるのが「超人」。「高揚感と創造性の化身」となったような人間になりきってルサンチマンニヒリズムを抱くことなく、常に創造し続けていくような人こそ「超人」と呼ばれるもの。ただ超人についての具体的な説明を一切ニーチェはしていない。

 その上で著者は超人に対し一人でがんばるイメージではなく頼ることを学ぶこと、尋ね合う関係をつくることの重要性を指摘する。

 

第3章 永遠回帰とは何か

 ニーチェは「永遠回帰の思想はニヒリズムを徹底する」という意味の断片を残しているが、永遠回帰を受け入れることができるかどうかが人間を弱者と強者に振り分ける肝心カナメだと考えた。著者は永遠回帰を受け入れるのに、しかたなく受け入れるのではだめで、それを欲した、意欲したにしなくてはいけないという。「しかたなしの受容」は皆わかると思うが、「これ“が”いい。私はこれを欲する」となると、多くの人は無理ではないかと感じると思う。でもニーチェは人生の苦しい物事を有益と認め、愛そうとすることを「運命愛」と呼んだ。それを納得できなければ「呪うことを学べ」とニーチェは言う。

「魂がたった一回だけでも、弦のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら、このただ一つの生起を条件づけるためには、全永遠が必要であったのでありーまた全永遠は、私たちが然りと断言するこのたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていた」(原佑訳『ニーチェ全集』第12巻理想社

(こんな瞬間を高校の時に覚えたのを今思い出した。ずっと忘れていた。思い出せたのはこの本のお陰だ。)

 

第4章 現代に「超人」は可能か?

 著者は、「高揚」や「悦び」を強調するニーチェに対し、「普遍性」(自他ともに認める普遍的な価値)を強調するヘーゲルはポスト・モダンの思想家たちから対立して語られるけれども、対立させる必要はないと指摘する。ヘーゲルニーチェに先立ち自由な個人が現れて個別化が進行すれば弾きリズムがやって来ると予測した哲学者であり、ニーチェと連続的に考えることができる。個別化が極まった日本社会の中で表現のゲームを育て安心できる場を育てるためには尋ね合いを大切することが大切だと述べて、最終章を終える。

 

対談―西研×斎藤環 「しなやかな超人」か「完璧なひきこもり」か

 斎藤氏は「承認抜きに自己を肯定せよ」と説き、西氏は自己肯定を育むためには「評価承認」ではなく「存在の承認」のために互いの感情を受け止め合ってキャッチボールする関係を作ることが大切と説く。

 

あとがき