裏表紙「著者は、『伊達騒動』の中心人物として極悪人の烙印を押されてきた原田甲斐に対する従来の解釈をしりぞけ、幕府の大藩取り潰し計画に一身でたちむかった甲斐の、味方をも欺き、悪評にもめげず敢然と戦い抜く姿を感動的に描き出す。雄大な構想と斬新な歴史観のもとに旧来の評価を劇的に一変させ、孤独に耐えて行動する原田甲斐の人間味あふれる肖像を刻み上げた周五郎文学の代表作。」
第3部(承前)
放鯉 断章(十一) みちのおく 風流無韻 いちじく 断章(十二)
第4部
意地の座 絶壁 宮本節 おち鮎 断章(十三) 千本杉 闇夜の匂い
伊達屋敷焼亡 断章(十四) 籃中の魚 影と形 楔 断章(十五)
断琴断歌 冬の章
2巻で鬼役として死を覚悟した塩沢丹三郎は、一度は危機を脱したが、3巻で遂に毒死。死ぬ間際に駆けつけた甲斐だが、死に目には会えなかった。丹三郎は生前、食中毒で死んだ、毒死ではないと母に告げて亡くなる。伊東七十郎は、兵部の暗殺を計画するが、鷺坂靱負の裏切りで捕まる。七十郎の死後、七十郎と仲が良かった里見十左が、失明して変わり果てた姿で七十郎の亡き躯が埋められた場所で甲斐を詰問する。「千本杉」で甲斐は初めて十左に真実を告げる。同志だった茂庭周防が危篤に陥った時にも甲斐は姿を見せなかった。そしてもう一人の同志涌谷が境論問題で幕府に訴状を出し出府する。この機を待っていた酒井雅楽頭。老中評定にまで発展。甲斐は密約状を忍ばせて大和守と会い、写しを示して大和守が善意で10年前に忠告した真意を問う。評定で甲斐と再会を約束する大和守。大和守は評定直前に酒井雅楽頭に密約状の話をして説き伏せる。甲斐は伊達安芸(涌谷)と会い、大和守との面会の様子を伝え、伊達62万石は安泰の予測を伝え、穏便に評定を終えたいと説得するが、安芸は命に代えても今こそ根を断つ時と譲らない。直前に板倉邸から酒井邸に評定場所が変更され、一人ずつ交代して評定に臨む。いよいよ甲斐が密約状を評定の場で示そうとする矢先、5人の侍が抜刀して、安芸、甲斐、外記を斬る。
「―そうか、雅楽頭、やったな。甲斐はそう思った。」
そして、次の瞬間、今際の甲斐の言葉を読み、背筋がぞくっとした。「涌谷さま、大事の瀬戸際です」「よくお聞きください、これは私のやったことです、わかりますか」「私が乱心してやったことです」「酒井家の方がたではない、私が乱心のうえの刃傷です」「候は敗北を認めたのです、これは、62万石安堵の代償です」と。
これにより伊達家は守られたが、原田家は断絶。傍に仕えていた惣左衛門は殉死。宇乃は静かにこの処断を受け止める。
何というラストか。死の間際にわざわざ自分で汚名を着て、守るべきものを守って死んでいく。そんな壮絶な死に様があるのだろうか。体の震えが止まらなかった。大学時代に読んで以来、久々に読み返したが、読み返して本当によかった。人生の原点を思い出すことができた。
もっとも、作者は、誰もが原田甲斐のような生き方ができるわけではないことも良くわきまえている。新八がおみやに語る次のセリフがそれだ。
「おれは必ず新しい唄をあみ出してみせる、おれ自身の経験した、人間の悲しみや絶望感や嘆きを、おみやをとおして、女の哀れさや、愛情のせつなさや、よろこびを、そういうものをうたいあげてやろう」
「侍というものは、自分や自分の家族よりも、仕える主君や藩のほうが大事なんだ。おまえも武家に生まれたそうだし、おれも侍だった。けれども、おれたちにはあんな生き方はできない。あの人たちからみれば、おれやおまえは堕落した賤しい人間だろう。おれたちからみれば、あの人たちはどこかで間違っている、この世にありもしないもののために、自分や家族をいさんで不幸にしている、というように思える。つまり世界が違うんだ、そして、これやおまえは、こっちのこの世界で生きるように、生まれついているんだ」(風流無韻)
一方で、甲斐は丹三郎が死んだ後、舎人に対し次のように語る。
「意地や面目を立てとおすことはいさましい、人の眼にも壮烈にみえるだろう、しかし、侍の本分というものは堪忍や辛抱の中にある、生きられる限り生きて御奉公をすることだ、これは侍に限らない、およそ人間の生きかたとはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護立てているのは、こういう堪忍や辛抱、―人の眼につかず名もあらわれないところに働いている力なのだ」(闇夜の匂い)
生きて生き抜くことの大切さを知り尽くしていた原田甲斐だからこそ、斬られた直後に心の奥底に深く刻まれた生き様から口に咄嗟に出てきた、あの一言。「私が乱心してやったこと」「これは62万石安泰の代償」。自らの信念を貫いて生き抜いていくことも、自らの信念に殉じて死んでいくことも、どちらも美しい。どちらが正しいとか間違っているとかいうことではなく。