2021年12月20日第1刷発行
帯封「教皇フランシスコ、トマス・アクィナス、アウグスティヌスからハール・バルト、西田幾多郎まで 時代の危機にキリスト教はどう答えてきたか? 未来を照らす光を過去の叡智に探る神学対談」「危機が訪れたとき、人は祈るほかないという地平に立つ。そこで祈りを深めることは、そのまま危機に深く直面していくことになる。そこでこそ、個は隣人へと開かれていく契機ともなると思うのです。若松英輔/コロナ危機後に教皇は折に触れて、これは自己中心的なあり方、自分に閉じこもっているあり方から抜け出る決定的な機会なんだと述べています。自分の力だけでは事故閉塞的なあり方から出ていくことができない。それには、揺り動かされることが必要だというわけです。山本芳久」
表紙裏「広がる社会の分断、無関心という病、気候変動のリスク、コロナ禍で顕在化した社会の危機、心の危機に私たちはどう立ち向かえばいいのか。新型コロナウイルス感染症の流行という『危機』を手がかりにしつつ、より広い歴史的視座のもと、過去の叡智に未来への道筋を探る神学対談。」
目次
はじめに 山本芳久
第1章 常に直面するものとしての危機
第2章 疫病とキリスト教
第3章 「個」から「ともにある」へ
第4章 「危機」こそ「画期」である
おわりに 若松英輔
第1章
・山本は、教皇フランシスコ『パンデミック後の選択』で、今回のコロナ問題はもともとあった「無関心なエゴイズム」という「より悪質なウイルス」を顕在化させる決定的な機会にもなっており、だからこそ、正面からそれらに立ち向かい、よりよいあり方を築き直していくための決定的な機会として活用していけるのではないかと捉えているところを中心に議論を進める。
第2章
・山本は、疫病があるつど、キリスト教がローマ帝国の中でじわじわ広まっていったというロドニー・スタークという宗教社会学者が書いた『キリスト教とローマ帝国』をテキストにしながら、キリスト教の七元徳を解説する。古代ギリシアの賢慮、勇気、節制、正義の4つの枢要徳に、新訳聖書のパウロの書簡に見られる信仰、希望、愛の3つの徳を加えたもの。
山本は、N・T・ライト『神とパンデミック コロナウイルスとその影響についての考察』の中で、「イエスは、仮説的な原因をふり返ることはしませんでした。むしろ、神がそのことに対して何をなさろうとするかと将来に期待しました。言い換えるなら、この問題について自分は何をするかをイエスは考えたのです。」と述べている箇所をとり上げ、私たちにとって重要なのはイデオロギーではなくてコスモロジー(心霊的宇宙)ではないかと指摘。山本もそれに賛同する。
第3章
・この章はアウグスティヌス、トマス・アクィナス、ハンナ・アーレントをたびたび登場させて、若松はキェルケゴールを通して、隣人には死者も含まれるといい、東日本大震災、コロナ禍の真っただ中で死と死者を抜きにした哲学は作り物としての世界を論じることになるのではないかと述べる。祈り、沈黙、畏怖、観想というコトバから
第4章
・危機こそ画期である、という視点をアウグスティヌス、トマス・アクィナスの時代ごとに神学的な解説を加えた後、バートランド・ラッセルは、神学と科学のあいだにある緊張の中でこそ哲学は生まれるといい、それを踏まえて山本は日本の哲学者が神学との関係で哲学を位置づけてこなかったという。更にカール・バルトの危機神学は危機の時代の渦中でパウロとの共時性という神学的時間があることを語りかけている、瀧澤克己はバルトに学び神学の地平を信仰の有無に関係のない場所に広げようとした、その試みは危機の神学を探求する一つの軸になり得るのではないか、更に現代のアウグスティヌスといわれるボンヘッファー、西田幾多郎、オルテガ、ボルノーについて言及する。
第5章
・フランシスコ、ベネディクト、パルロ六世へと遡って回勅を読むと、教会の枠を超えた場所で語っていることが分かる、例としてフランシスコの「この経済は人を殺します」との言葉を紹介する。コロナの問題も踏まえた回勅では「人間の苦しみに、動転するほど心乱されるべきなのです。それが尊厳なのです。」と述べる。またコロナに直面して出された『教皇フランシスコ コロナの世界を生きる』でもコロナという危機が無関心のパンデミックというあり方から解放される格好の機会を与えてくれる、そこに耳を澄ませてみようと言っている。そしてソーシャルディスタンスはパンデミックに対する必要な応答だがこれがつづくと私達の人間性を侵食せざるをえない、私達は単につながるためではなく触れ合うために生まれてきた、とも述べている。
なるほど。神学とは閉じた世界の出来事ではなく、実践の学問である、ということが初めて少し理解できた気がする。