満州事件 政策の形成過程 緒方貞子

2011年8月18日第1刷発行

 

裏表紙「1931年9月18日、柳条湖の鉄道爆破をきっかけに勃発した満州事変。事件はいかにして引き起こされ、なぜ連盟脱退にまで至ったのか。関東軍と陸軍中央部、政府指導者のせめぎあいは、日本の政策と国際関係をどう変容させていったのか。満州事件の背景・展開・影響を克明に分析した記念碑的な著作。(解説=酒井哲哉)」

 

目次

まえがき-岩波現代文庫版の刊行に寄せて

 第1部 背景

第1章 満州における日本権益の擁護と拡大

    紛争の遠因/外交政策/「新強硬派」の誕生/満州における日中の対立

第2章 国内危機と革新運動の発展

    政党政治/労働運動/国家社会主義/大戦後の軍部/陸軍における国家革新運動/革新陣営の概況

第3章 関東軍および在満日本人の満州問題解決策

     在満日本人の不満/関東軍の満蒙問題処理案/関東軍の戦略

 

第2部 事変の展開

第4章 奉天事件と戦線の拡大

    計画および準備/軍事行動の開始/時局の重大化/その後の軍事行動/国際関係

第5章 関東軍の満蒙問題解決策の変遷

    9月22日案/10月2日案/関東軍の外交攻勢/内田使節/在満日本人の支持/国際的反響

第6章 関東軍独立と十月事件

    関東軍独立事件/十月事件/関東軍独立と十月事件/過激事件が軍部に与えた影響/過激事件の政治的影響/過激事件と対満政策の転換

第7章 北満攻略論争

    嫩江鉄橋作戦/チチハル占領論争/錦州攻撃/連盟の動き

第8章 関東軍満州国の独立

     自治指導部の設立/独立への動き/新国家建設の諸構想/福祉政策/満州国の独立

 

第3部 影響

第9章 満州事変と政党政治の終末

    犬養内閣の成立/新たなる交渉/上海事変政党政治の危機/犬養の暗殺/斎藤内閣の誕生

第10章 満州事変と外交政策の転換

     満州国承認/対列国政策/リットン報告/連盟脱退

結論

 

解説 酒井哲

      満州事変は、国際連盟常任理事国が紛争当事者となった地域紛争である。こういう地域紛争に対して国際社会はどのように対応すればよいのか。こうした問題は、決して過去の問題とはいえないだろう。いや、むしろ冷戦後に国際連合と地域紛争の関わりとして、私たちの眼前で展開されている問題ではないか(抜粋)。

 

 解説者の酒井哲哉東大教授(日本政治外交史)の上記指摘は、まさしく現在起きているソ連ウクライナ侵攻に当てはまる。本書は、ウクライナ戦争に対して国連がどう向き合い、大国ソ連に国際社会がどう向き合うかのヒントを与えてくれるのはないかという期待を込めて読み進めた。

 

 中学校や高校では、満州事件は陸軍の暴走によって発生したという程度のことしか習わなかった気がする。そして満州事変を機に、満州国が建国され(溥儀が満州国の元首に)、同じ昭和7年に5・15事件(満州国の承認に反対した犬養毅暗殺事件)、翌年に国際連盟脱退、そして昭和11年2・16事件が起き、国際協調路線よりも強硬的な方針の者の発言力が次第に強まり、議会はあるものの軍部が支配する国へと転落していった、という程度の概略的な知識しか持ち合わせていなかった私には、数多くの文献を紐解き、精緻な戦前期を対象とした歴史考証を緒方さんがなさっていたこと自体が大変な驚きだった。

 

 以下は、備忘録。

・いわゆる対華21か条の要求は満州における権益を永久化しようとする日本の願望が具体化されたものであり、さらに中国の他の地域にも日本の勢力を拡大して、当時第一次世界大戦に没頭していた欧州列国に対抗出来る地位を築こうとする意図の現われでもあった。この日本の要求に基き日中間に条約が締結され、関東州の租借ならびに南満州鉄道および安奉鉄道の権益に関する期限がいずれも99年に延長された。

張作霖が日本の圧力に屈し漸く手中におさめた中国の首都北京を退こうと決し、田中内閣の、張には満州を、蒋介石には中国本土を統治させようとする構想は、関東軍一部の計画的な列車爆破により張が昭和3年6月4日に殺害されたことにより潰えた。

昭和6年3月の桜会によるクーデター未遂事件は、陸軍部内の下剋上傾向を助長し、中堅将校に依存する戦術を改め運動の重点を地方の尉官級将校へ移しますます過激化して遂に2・26事件を引き起こした。軍上層部はこれを利用して軍全体の政治権力の増大に努めるようになった。

満州をめぐっては、昭和6年8月当時、関東軍満州の軍事占領のみが残れる手段と信じるに至っており「謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主動トナリ国家ヲ強引スルコト必ズシモ困難ニアラズ」と考えていたが、参謀本部はいまだ張学良政権を相手とした外交交渉により事態の解決にあたり得る段階にあると判断していた。

奉天事件以来、政府は戦線の拡大を阻止しようと努力していたが、事件発生後3日間における関東軍の行動は敏速かつ大規模であった。奉天は一夜にして陥落し、臨時市政府の統治下におかれた。戦線をハルピンまで拡大することを阻止した政府はたとえ暫定的にせよ軍の統制に成功し、9月24日、日中紛争に関する最初の正式声明を発した。

満州事件外交の初段階において、日本は自己の立場を有利に導くことに成功した。スチムソン国務長官は日本が若槻-幣原グループと狂暴な軍部との二陣営に明白に分かれており、幣原を援助した。その上で著者は諸大国が関東軍に膨張計画を阻止しようとせず消極的な態度を取ったことは果たして日本政府を援助する結果となったか。スチムソンのひいきをしない政策は彼が望んだように若槻-幣原グループに支持を与えたことになったか、と問題提起した上で大国の軟弱な態度はかえって関東軍指導者をして政府に反抗してますます過激な手段をとっても大戦争の危険はないと判断させ結果的に彼等の慢心を強め独走を促進したと解釈すべきであると述べる。

関東軍の意を受けて内田総裁は日本政府の最上層に働きかけ、在満日本人は関東軍を支持し、対満政策の重点は新政権樹立問題に集中し、政府としてどの程度援助しどのような役割を与えるかにつき決定を行う必要に迫られていった。その中で行われた錦州爆撃は世界に対する日本の道義的立場を著しく低下させた。

・未遂に終わった十月事件は、若槻、幣原、井上らの閣僚の外、内大臣牧野伸顕宮内大臣一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎ら宮中関係者ならびに政党指導者の暗殺が含まれているとされており、在京将校120名、兵は近衛各歩兵隊から十中隊、機関銃一中隊、第一師団から約一中隊、外部から大川周明北一輝ならびに西田税らの一派、また海軍からは海軍抜刀隊約10名が参加予定の大規模なクーデター計画であった。

・軍中央部は満州を事実上支配することに最大の関心を有し、間接的な支配を確立すれば足りたが、関東軍は強固に満州を中国本土から分離させる方針を支持していた。これにより若槻や幣原は平和を念願していたかもしれないが、彼等の政治の実質は平和外交の呼び名とは違った方向、すなわち平和外交が崩壊し始めていていた。

・犬養は、満州における中国主権の承認を表明した。満州国の独立を阻止することには失敗したが、満州問題に対する国際的非難を緩和するため、新国家の正式承認を差し控える方針を打ち出した。

上海事変を契機に対外関係の悪化を招き、米国のみならず国際連盟までも満州国不承認の方針を打ち出し、犬養内閣を著しい苦境に追いやった。一般に犬養内閣をもって第二次世界大戦以前の最後の政党内閣として特徴づける傾向があるが、より正確には犬養内閣について注目すべきことは在任中の6か月間に政党から軍へと政治権力が移動したことである。満州における日本の権益の保護と発展という国家目標を平和的手段を用いては成功出来なかった政府は軍に対していきおい受け身とならざるを得なかった。その条件にあって犬養内閣が満州国の正式承認を差し控えたことはせい一杯の試みであった。

昭和7年夏、外交政策の一大転換が行われ、齋藤内閣の下で満州国の承認は、世界に宣言するに等しく日本にとり不利な国際的反響をもたらした。

・リットン報告書は、満州事変の直接的原因となった9月18日19日夜の日本の軍事行動をもって自衛の措置と認めることはできない、満州国の建設を可能ならしめた二大要因は日本軍の存在と文官及び武官からなる日本人の活動であった点を指摘し、満州の現政権が自然的且純真なる独立運動の結果であることを否定した。

国際連盟の19人委員会はリットン報告の線に沿い、中国の主権の下に満州自治政府を建設し、日本軍を鉄道附属地外から撤退させ、日中交渉を開始させるとともに連盟加盟国には満州国不承認政策を遵守させることを提案した。日本は連盟に対し正式に脱退を通告。閣内にあってこの政策を最も強く推進したのは荒木陸相であった。日本が脱退に至ったのは周りの日和見主義が強硬論者に道を譲る結果となったからである。

満州事件の遺産の一つは、日本が列国の名目上の反対と実質上の反対との間に差があることを発見したことである。それ以降国際情勢に対する日本の評価には一種に甘さが見られるようになり、それが日本の外交政策を冒険主義へと駆り立てたといえる。

満州事変が国民に歓迎された一つの理由は事変の結果国民経済が拡大されることが期待されたからである。満州事変の原動力となったのは社会主義帝国主義である。中央の統制の及ばない領域が存在したため、日本軍部はその行動の全領域を合理的な支配体制のもとにおいてはいなかった。このため権力をめぐって対立する諸勢力がそれぞれの立場を対決し合う必要性が減少し、それがまた統一された政策決定構造の発達を妨げ、かくして満州事変以後に残されたものは、合理的で、一貫した外交政策を決定、実施することの出来ない「無責任の体制」だけだった。

 

はじめて満州事変とは何だったのか、満州国の建国と日本の承認、そして国際連盟の脱退という歴史の流れが理解できました。