浪華燃ゆ 伊東潤

2023年3月13日第1刷発行

 

帯封「わしは己に厳しくあらねばならぬ。公儀の治政を正し、民の窮地を救うため決起した大塩平八郎。幕末前夜、大坂の町を焦土とした乱のすべてを描く慟哭の書。江戸幕府の瓦解はここから始まった。」「陽明学を究めた学者でもあり、大坂町奉行の敏腕与力でもあった大塩平八郎は、家族、門人たちをも巻き込んで、命を懸けた世直しに挑む。立場にあぐらをかき、豪商と結託して私腹を肥やす上役ども。立身出世に目がくらみ、悪事に立ち向かえない同僚、同輩。世のため人のためにならぬ御託ばかりを並べる学者たち。この男は、すべての不正を許さない!」

 

徳川幕府が倒れる少し前に起きたという程度にしか覚えていなかった大塩平八郎の乱。だが、これほどまでに剛直で潔癖な人物で、しかも飢饉に喘ぐ民を救うために自ら大きな事件を引き起こし最後は潔く死んでいく。彼のやり方が決して正しいとは思わないが、その一方で、保身に走り甘い汁を吸うだけしか能がない周りの権力者を唾棄し、心ある権力者に民の悲惨さの現状とその声を認識させようとして自らに出来ることは反乱しかないと固く信じて殉じて死んでいく潔さに感銘を覚える。今も昔も腐った連中はどこにでも必ずいる。それを変革するために急いては事を仕損じる、さりとて座して待つばかりでは何も変わらない。そのあたりの潮目をきっちりと見ながら、今、己の出来ることを最大限やってその時をひたすら待つ、それしかないのかもしれないなどと改めて色々考えさせられた。

 

大塩平八郎は、人口42万余を超える大都市の大阪で、大塩敬高のもとに生まれる。父は30歳の若さで急死したため、祖父の養子となり、14歳で元服し、与力見習いとして初出仕する。大坂東町奉行所方与力として大阪の治安を守る一方、梅花社で儒学を学び、曲がったこが大嫌いな性格に磨きがかかっていく。祖父から陽明学も学んでいく。24歳で『呻吟語』を読んだことで学問への探求心が目覚める。大坂東町奉行として高井実徳(さねのり)が赴任してくると、大坂に蔓延る悪を取り除くために命を懸ける。32歳の時、『日本外史』を刊行した頼山陽と出会い、今の仕事に精励し非番の時に学びその間に大きな自我を育てその先に世のため人のための学問が見えてくると励まされ、山陽が病死するまで9年もの交友が続く(ここまでが第1章「商都の武士」)。

与力の仕事と並行して洗心堂という塾を開く。門下に同心・与力・藩士を大勢集める。王陽明が「人は何をするにも、まず志を立てる。そしてそれを実現するために学ぶ。また勉学の過程で過ちに気づいたら素直に改める。過ちを認めず見過ごすことは学問の妨げになる。そして人には、友や後輩門人を善導する責任がある。この四点をわきまえている者は、道を過たない」とし、「立志」「勧学」「改過」「責善」の四点を4つの教条として門下を導いたことに倣い、入塾する際には8か条からなる洗心洞入学盟誓に捺印してもらうことにした。ゆうを妾にしたが子に恵まれなかったので別家から15歳の格之助を養子に迎えた。格之助は皆の手本となるべく牛の上刻(午前2時頃)に起床し、学ぶべきものを読み、前日までの復習を行い、早朝の平八郎との問答に挑む。理路整然と答えられなかった場合、手の甲を打たれる。

耶蘇教徒逮捕一件で平八郎の名は幕閣まで鳴り響き、また儒家として名高い林家が窮乏すると同じ儒学を奉ずるものとして見逃せないとして金策に走り、千両もの大金をかき集めて林家の財政立て直しに成功する。西町奉行与力の汚職事件では内部告発によって不正を摘発する。ところがゆうの父まで不正無尽に関わった事実を把握した平八郎はゆうに断腸の思いでゆうに離縁を通告する。大塩平八郎は清廉潔白で不正は絶対に許さない正義感のため、己にも己の身内にも厳格な態度で臨む。悪に手を染める者は知らず知らずのうちに自分も悪に少しずつ染まっていく。西町奉行として赴任した新見と東町奉行の高井は、東町与力の平八郎と西町与力の内山彦次郎に大坂の腐敗の実態調査を命じるが、調べるほどに腐敗の根が深く事態の深刻さに、内山は穏便に済ますようにとのお上の内意を伝えられ、自らの出世のためにそれに従う内山を蔑視した平八郎は、内山の声に耳を傾けない。結局、平八郎は調査をやり遂げたが、お咎めなしで済ませられた奉行もいたために不満を持つ。ともあれ、不正の温床となる商人からの賄賂が横行する中、自身は一切受け取らず、同僚に対しても強く訴え、大阪に大塩ありと言わしめるに至る。それでも与力や自分一人の力に限界を感じた平八郎は38歳で与力を辞職し、学問への道に専念する(第2章「洗心洞先生」)。

 安部川の氾濫を抑えるために浚渫の断を下した新見は、江戸から給金の協力が得られぬため自己私財を投じて千両を投じる覚悟を決めると、平八郎は粋に感じて金策に動く。一文無しになっても事業をやり抜いた新見は、大抜擢を受け、登城する裃さえ買えなくなっていたが、平八郎はかき集めた千両を新見に送る。後に新見は家慶の御側御用取次にまで出生した。

天保の大飢饉は、大勢を飢えに苦しませた。ところが江戸からの廻米要求に汲々とした西町奉行の矢部は平八郎から自らの出世より一人の餓死者を救う方が大切だと説かれても従うことはなかった。江戸に廻米を続ける矢部の悪行を平八郎は建議書に書き連ねて後に矢部は自ら命を絶つことになる。

 11代家斉の奢侈を極めた生活に文句を言わず自らも贈収賄を奨励する老中首座の水野忠成も、次の水野忠邦も改革に踏み切ることができず、為政者の退廃ぶりをただすためには世直しをしなければならないと次第に平八郎は考えるようになる。親友の大坂城玉造口番方与力の坂本鉉之助は、平八郎と久しく酒を酌み交わすが、己の考えに凝り固まっている平八郎と大きく距離が隔たっていることを感じる。

 43歳になった平八郎は、門人の27歳の宇津木靖が蘭学習得のために長崎に旅立つ餞別として大塩家に伝わる国光の脇差と10両を手渡し長崎に送り出す。

町奉行として赴任してきた跡部も出世しか頭にない男で、しかも内山が跡部に知恵を与えていることを知った平八郎は内山と面談するが、民の為に動いてもらいたいという平八郎の言葉に耳を全く貸さない。どこまでも民の困窮をよそに自らの保身のために動き続ける跡部と内山を討つため、ついに平八郎は覚悟を決める(第3章「秋霜烈日」)

平八郎は、主要な門人を招集し決意を伝える。また自身が持っていた蔵書すべてを売却し620両もの大金を手にし、1万軒に施行した。武器を買い求め、檄文を書き、準備を進める。格之助から別の方法で民を救うべきではないかと諭されるも平八郎はもはや格之助の言うことを聞かず、共に起つか否かだけを問い、格之助は何があっても義父上に付き従うと答える。天保8年2月19日の夜が明けると、何と宇津木が長崎から戻り挨拶に来る。宇津木に思いのたけをぶつける平八郎だが、宇津木は暴挙を押しとどめようと説得するも叶わず、一切合切を聞いた宇津木は自害する。享年29歳。天下に隠れなき有為の材として表舞台に出る前の無念の死だった。

しかし、結局、別の弟子に裏切られて計画が奉行所に漏れてしまい、予定を早めざるを得なくなり、準備不足のまま、平八郎は天満の自宅に火をつけて蜂起する。総勢300人ほどの勢力となり、商人たちの家を襲撃するものの、10倍近くの幕府軍から総攻撃を受けて反乱当日に鎮圧されてしまう。結局、大坂の町5分の1が灰燼に帰し、甚大な被害を与える。その後、平八郎親子はしばらく逃げおおせたが、潜伏先が見つかり、鉉之助が捕らえに来る。このため格之助は自害、平八郎も爆薬が仕掛けてあることを鉉之助に伝えて逃げる時間を与えて自決する。江戸幕府が終焉を迎えるのは、平八郎の死から30年後の慶応3年であった(第4章「心太虚に帰す)。

 

宇津木が自害し、格之助が自害する。未来ある若者の目を摘んだ平八郎の罪は大きい。しかし保身に走る権力者の何と多いことか。腐臭がするほどに醜い世の中かもしれないが、それに耐え、時を待ち、時を作り、民が苦しまずともよい世の中を作ることがいかに難しいかということを改めて考えさせられた一冊でした。