子産《上》 宮城谷昌光

2003年10月15日第1刷発行 2021年8月16日第16刷発行

 

裏表紙「信義なき世をいかに生きるか―春秋時代中期、小国鄭は晋と楚の二大国間で向背をくりかえし、民は疲弊し国は誇りを失いつつあった。戦乱の鄭であざやかな武徳をしめす名将子国と、その嫡子で孔子に敬仰された最高の知識人子産。2代にわたる勇気と徳の生涯を謳いあげる歴史叙事詩吉川英治文学賞受賞作。」

 

中国の春秋時代中期、北に晋、南に楚という大国があり、鄭は衛や宋と同じ規模の国力を持ち、許、蔡、陳などの小国よりは大きかった。鄭の君主だった父穆公(ぼくこう)には大勢子がいて、次の君主の成公、宰相の子罕(しかん)、執政の子駟(しし)、将軍の子国らがいた。子産は子国の嫡子だった。子産は史官について学問をしたが、すぐに史官は子産が百年に一人の英才と感嘆し、一人ではなく二人がかりで教えた。楚は鄭に宋を攻めるよう命じ、鄭軍は帥将子罕、佐将子国で攻め、鄭軍は宋の二将を破った。これに対し晋軍が出師すると、楚軍も出発し、楚は鄭を加え、唐や隋など南方の小国の師旅を翼進させ、晋は衛、魯、斉を連合させるつもりだった。が連合がならないため、このままでは楚が晋軍を潰滅させる危険があるが、子駟は子国にその手助けはせず晋軍を勝たせることで晋に恩を売っておく戦略を教えた。鄭軍に断りなく楚軍は退却し、鄭は大敗した。晋軍は楚も鄭も追わなかった。楚の為に鄭は晋を夜襲し成功させた。鄭は片目で楚を窺い、片目で晋を窺いながら、外交と向きを決める必要があった。太子と子罕は人質として晋に向かったが、晋の国都に入ることはできなかった。子産は晋の内部抗争と晋の手で太子を葬ろうとした子駟の策略を感じ取った。晋君が誅殺されると、楚は鄭に再び宋を攻めるよう命じた。堅城だった彭城(ほうじょう)は今度は落ちた。これにより人質の太子が帰って来た。晋が再び鄭を攻めた。将軍は韓 厥(かんけつ)だった。子国は軍政の最高責任者の司馬に任命された。鄭の成公が亡くなり、僖公が即位した。僖公は子駟を失脚させるつもりだった。もはや僖公を殺さねば子駟が殺される状況だった。僖公は毒殺された。僖公の子は五歳だったが、簡公として即位した。子駟は国内の非難を抑えた。晋のために鄭が働いたと認めさせるために蔡を形ばかり攻めるのではなく、あきらかな戦果を治める必要があった。21歳になった子産は、父子国が子駟に引退を勧めるべきであるといった。蔡の首都に向かう前日、子国は子産に対し公子らが子駟を打倒するために挙兵するが他言せぬようにと告げ、我が家は子駟に殉ずると言った。子産は子駟でなく君を守ることではないかというが、子国は一喝した。クーデターの芽を摘んで粛清し、蔡攻略を成功させた後、鄭は楚と講和した。いきさつを晋に伝えたが、晋は鄭に恫喝を込めて進軍した。民を庇うと言っていた子駟は降伏せず、子駟の不実に子孔らは痛感した。猛攻をしのぎ子駟は晋へ和睦の使者を送り会盟に漕ぎ着けた。しかし晋は鄭の誠実さを疑い、鄭に進行し、鄭は楚に帰順した。