昭和59年3月2日1版1刷
①この道58年、つねにPRを忘れず
②苦しい家計の中で寺子屋通い
③文楽をみて文五郎師匠に弟子入り
④一役一役をコツコツ勉強
⑤師匠の前名「吉田簑助」を襲名
⑥踊りの稽古が縁で二十歳で結婚
⑦大役「典侍の局」に挑む
⑧門十郎と初代紋十郎のこと
⑨二代目桐竹紋十郎を襲名
⑩文楽そのままに踊る「人形ぶり」
⑪挫折した映画界への転向策
⑫“花あって実のない”未熟な芸
⑬終戦後、初めての天覧斎戒沐浴
⑭労組を結成―三和会誕生
⑮世界に示す“日本芸術の粋”
・明治33年11月20日大阪生まれ。明治42年9月に吉田文五郎師匠に入門。58年間この道一筋に歩む。人形は人間が3人掛かりで操作して人間のように動かすところにこの道の芸がある。主づかいは左手で人形の頭を持って首を動かし右手で人間の右手を操作する、左づかいは人形の左手だけを専門に動かす、足づかいは人形の足だけを専門に操作する。一生足づかいで終わった人もいれば、左づかいで終わった人もいる。私はしばらく足づかいに専念した。文楽は正確には「人形浄るり」と言い、松竹が本家だった。師匠の前名の簔助を襲名。足づかいから左づかいに昇格し、18年目で一本立ちの主づかいになる。明治文学座の重鎮だった初代桐竹紋十郎の名称を襲名させようという話は御霊文学座の焼ける頃に出て27歳で有難くお受けした。お座敷で人形ぶりを広めたのは私。謝礼を貰わない代わりに切符を買って見にきてくれればよいという条件で広めた。戦後は昭和21年2月に文学座再建復興記念興行が行われ盛況裡に終えた後、組合派で文楽三和会が三越劇場で自主公演を行った。昭和40年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定される。三和会在職中は師匠文五郎に挨拶すら出来なかった時はショックだったが、ある葬儀で再会できた時に過去のわだかまりを払拭できた。芸人に花柳界はつき物だが、しろうととは決して問題は起こさないし家庭はかならず守るという苦しい言い逃れをして家内に誤った。極道をしたからといって人様に大きな迷惑をかけたり芸に故障を来すことはなかった。(昭和45年8月21日死去)