100年企業の改革 私と日立 私の履歴書 川村隆

2016年1月20日1版1刷

 

帯封「どん底から最高益へ。沈みかけた巨艦・日立を再生させた立役者が、経営改革の要諦と自身の半生を語る。」

表紙裏「大企業でありながら繁栄を永続させるのは並大抵のことではない。節目で『痛みを伴う改革』を実施してこそ、新しい時代との適合が可能になり、新たな生命力が会社に吹き込まれる。それができた会社は、たとえば2008年に起こった世界金融危機のような外乱にも耐えられるが、そうでない会社は、劣化が進んだ事業を発端にして経営破綻に至ることがある。老舗企業が再び若々しさを取り戻すためには何が必要か。これが、日立の経営者として私が取り組んだ課題である。 (本文より)」

 

著者

1939年、北海道生まれ。62年東京大学工学部電気工学科を卒業後、日立製作所に入社。電力事業部火力技術本部長、日立工場長を経て、99年副社長就任。2003年日立ソフトウェアエンジニリング会長、07年日立マクセル会長などを務めるが、日立製作所が7873億円の最終赤字を出した直後の09年、執行役会長兼社長に就任、同社再生を陣頭指揮する。黒字化の目途を立てた10年に社長を退任、14年には取締役会長を退任し、現職(日立製作所相談役。元取締役会長)。

 

目次

序章 100年企業の改革

第1章 日立の経営改革

第2章 痛みを伴う改革の実践ー私の経営論

第3章 受け継いだもの

第4章 私と日立

第5章 よい人生とは

あとがきにかえて

 

アメリカを代表する大企業で構成される株価指数「ダウ工業株平均」は、1896年、優良企業12社が選定されて始まったが、それから120年が経過したいま、その12社のうちで生き残っているのはゼネラル・エレクトリックGM)ただ一社である。基盤が強いようにみえる大企業であっても、時代の風雪をくぐり抜け、100年を越えて繁栄を続けるのは容易なことではない。日本でも同じだ。100年を超える歴史を持つところはいくつもあるが、ずっと順調に右肩上がりの成長を続けてきた企業はほとんどない。最善の経営者とは、平時から「痛みを伴う改革」を継続的に実行できる人である。これが永続して繁栄する企業への唯一の筋道だと思う。

・今もスマートフォンに英語のラジオニュースを録音し、通勤の車中でそれを聞いてリスニングの練習をしている。

・社長になったら、副社長の頃に比べて見える景色が格段に広がった。「高さで3倍、視野で9倍になった」と当時言った。老化した部分もはっきり認識でき、伸ばすべき分野も見えた。あとは似た考え方を持つ少数精鋭の経営陣と一緒に経営改革の実行あるのみだった。ザ・ラストマン、慎重なる楽観主義、部分最適より全体最適、大事は理で小事は情で、会社は社長の器以上のものにはならぬ、損得より善悪などといった、長い会社生活の中で自分のなかに取り込まれていた先達の言葉や考え方の数々にも導かれ、皆と一緒に無我夢中で経営専門職としての社長業を務めた。これからは「心せよ、まだまだいいことが待っている」という言葉に頼ることにしよう。

月神 葉室麟

2013年7月18日第1刷発行

 

月の章

福岡黒田藩の筑前勤王党の月形洗蔵はもはや尊王攘夷派の過激な行動を押しとどめることはできなかった。11代藩主黒田長溥は、幕府と長州の間を周旋したかった。毅然たる態度で外国に対するためには朝廷と幕府の一和、国内の統一を果たすべきだと考えいた。その長溥の考えをよく理解していた洗蔵だったが、それが成功した後の洗蔵が目指すものと長溥の考えは大きく隔たりがあった。高杉晋作福岡藩に亡命して来た時、洗蔵は晋作を匿い、晋作が長州に戻るための費用も工面した。長溥は洗蔵を長州周旋のために長州に送り込んだ。洗蔵は長州を説得できるのは晋作しかいないと考えて晋作を頼り、西郷隆盛に会って五卿の九州への動座を約束し、先に薩摩の征伐軍の解兵を約束させて、解兵後に動座を実行することを決めた。晋作と西郷の密約で薩長和解が成り、五卿動座も実現したが、長溥は洗蔵の独断を疑い、このままでは福岡藩が取っとられ、倒幕への道に引きずり込まれかねないことを危惧し洗蔵をお役御免にした。幕府が長州再征を決めると、長溥は尊攘派を厳しく対処することにした。洗蔵は長溥が再び自らの赤心を理解してくれる日を待ち望んだ。長溥を幽閉するとの噂が流れ、洗蔵はじめ尊攘派39人が謹慎逼塞が命じられた。晋作に贈った軍資金は長州周旋の任務から逸脱していたため尋問に窮した洗蔵は覚悟を決めた。洗蔵は、長溥を、自らの識見に過剰に自信を持ち、家臣はそれに従って動きさえよいものと思っている、智慧があるがゆえの暗君ではないかと思いながら、刑死した。

 

神の章

鳥羽伏見で幕府軍が敗れ、福岡藩は月形潔たち尊攘派を獄から釈放した。潔は福岡藩権少参事、東京裁判所小健二、内務省御用掛、準奉任権少書記官となり、北海道への集集監建設の調査を命じられた。新しく北海道の地で囚人の殖産可能性と候補地選定のために行動した。候補地が決まるとアイヌ人の協力を得、囚人を利用して獄舎を建設し完成後は飛蝗駆除等の様々使役させた。苛酷な労働関係のために大勢の囚人が死に発病した。樺戸集治監獄に新撰組で二番隊隊長だった永倉新八がやってきた。銃弾の数が減り、諜報活動をさせていたアイヌ人のレコンテの情報によると、脱獄で名を馳せていた五寸釘の寅吉が20数名で脱獄を企てているという情報が入った。予定日より早く実行された。ところが五寸釘の寅吉は動かず、外の者10数名が脱獄しようとした。この大地にひとを閉じ込める場所を作ってはいけないと考えていたレコンテは潔に嘘を付いていた。レコンテは五寸釘の寅吉に逆に脱獄の相談をしていた。レコンテは潔に正しさを求めるよい人だから、ここにいるのは間違っている、あなたのいるべき場所にいなければならないと言った。潔は健康上の理由で辞職願を出したが、本当の理由はレコンテに言われたことだった。人はいつまでも夜の闇に留まっていてはいけない、月であろうとするが故に自分を闇の中に閉じ込めてはいけない、それでは本当の夜明けはやってこないと述べて。妻に話をすると、妻からは「あなたは根の仕事をしたのだ」と言われた。洗蔵たちも根の仕事をしたのかもしれないと思った。寅吉は障害で6回の脱獄を繰り返し、6回目に捕まると、網走で脱獄を企てず模範囚として過ごした。

 

 

 

「外圧」の日本史 白村江の戦い・蒙古襲来・黒船から現代まで 本郷和人 蓑原俊洋

2023年2月28日第1刷発行

 

表紙裏「古代から現代までの歴史を通観した時、見えてくる日本の国家的DNA。まさにいま学ぶべき教訓がここにある! 命がけで海を渡った遣隋使。戦国乱世を大きく変えた鉄砲伝来。世界を驚かせた日露戦争の勝利。そしてGHQによる占領―。島国ニッポンと『外圧』の赤裸々な関係を、人気の歴史学者と気鋭の国際政治学者が読み解く!」

帯封「この国の岐路にはいつも『外圧』があり!人気の歴史学者と気鋭の国際政治学者が外交・軍事から日本史を一気読み!」

 

目次

まえがき

第1章 遣隋使・遣唐使聖徳太子朝貢外交-

第2章 白村江の敗戦―原型日本の成立-

第3章 モンゴルの来襲―鎌倉幕府の倒壊-

第4章 鉄砲の伝来―戦国時代の終焉-

第5章 朝鮮出兵―なぜ秀吉は大陸をめざしたのか―

第6章 キリスト教の弾圧―鎖国の完成-

第7章 ペリーの黒船―「鎖国」の終わり-

第8章 ハリスと日米修好通商条約―世界に開かれた日本-

第9章 日清戦争日露戦争―東洋の盟主へ―

第10章 第一次世界大戦パリ講和会議―大国の一員として(戦前日本の頂点)-

第11章 大正デモクラシーと排日の現実―脱欧入亜への契機―

第12章 大恐慌満州事変・日中戦争―現状変更と国際政治体制への挑戦―

第13章 開戦期―真珠湾と日本の敗北―

第14章 降伏と占領期―戦後日本の原型の成立―

あとがき

 

・中国の世界観の中で最上位にあるのは「毎年税金を払う地域」、2番目のカテゴリーに入るのが何年かに一度税金を納めにやってくる人々、3番目のカテゴリーが中国皇帝から冊封を受ける国々、4番目のカテゴリーに日本が入り、冊封する必要もない位遠い、いわば放っておかれている国となる(本郷)。

白村江の戦いで敗れたことで国の在り方を真剣に考え、党や新羅に対抗できる国造りを遣らないといけないとの機運が高まって、天智天皇と弟の天武天皇、天武の皇后の持統天皇の3人の時代に日本の原型が出来た。この時期の画期は大宝律令が完成したことにある(本郷)。

・蒙古襲来で集団戦法を鎌倉武士が経験したことで国内でも集団戦法が使われるようになる(南北朝の内乱)。また槍も使われるようになった。北条時宗はモンゴルの使者の首を斬ってしまうアホで、自分の財産を割いてでも褒美を振舞うという意識がなかった(本郷)。

・秀吉の朝鮮出兵は、東アジア貿易の主導権を握るため、明を屈服させようと出兵したもの、明・朝鮮の連合軍に押し戻されて講和させられたのが文禄の役。それでは恰好がつかないので、とりあえず朝鮮だけでも取ろうとしたのが慶長の役だったと思う(本郷)。

・秀吉の時まで日本は世界トップクラスの強国だったが、江戸時代になってから軍事面でどんどん遅れを取っていった(蓑原)。宣教師は一番の悪魔は禅宗だと言っている。一向宗はいいことをすれば天国に行けるというキリスト教の思想に似ているので、商売敵だと言われている(本郷)。

・今、江戸時代の研究者が「鎖国はなかった」と盛んに言っていて、恐らくそれが主流になる(本郷)。日本の開国は国務長官を務めたダニエル・ウェブスターがキーパーソン(蓑原)。ペルーは事前に日本を研究し、日本行きを決めた1851年時点で日本は間違いなく東洋を引っ張っていく大国になると言い切っている。当時そう思っている西洋人は皆無だった。アメリカが力づくで日本を開国させたという歴史認識は修正する必要がある(蓑原)。

・開国に成功したペリーの後で通商交渉のために来日したハリスは通訳のヒュースケンのみ連れてきた。ペリーもハリスも嫌英。ハリスは日本に着くと「イギリスによる植民地争奪戦から日本を守ることが自らの最大の使命だ」と日記に書いている。(蓑原)。

・歴史の転換点は明治維新でも日露戦争の勝利でもなく、大逆事件にある。それまでは学問は学問として守ると桂も原も言っていたのに山縣がそれじゃいかんというようになり天王万歳という歴史学が出来、天皇が神格化されていった(本郷)。

英米のトップ交代を印象付けたのはスエズ危機。ファイブアイズに日本が入れないのは機密を守る法律が緩いのと英語力の問題。戦場という緊迫した状況で完全に意思疎通できなければナンセンスというほかない(蓑原)。

・元老を廃止するのはやむを得ないにしてもそれに代わる機能を憲法に明記すべきだった(蓑原)。日本とドイツは三国干渉以降、基本的には仲が悪い。伊藤博文憲法を学びに行ったり、第二次大戦の三国同盟があるので親しいイメージがあるため、勘違いしている人が多い(本郷)。

マンハッタン計画は米軍事費の25%を占める国家プロジェクト。1946年6月段階で7発保有していたので、戦争が継続していたら更に悲惨な結果を招いていた(蓑原)。

 

狭き門 ジッド 山内義雄訳

昭和29年7月30日発行 昭和48年8月20日50刷

 

表紙裏「早く父を失ったジェロームは少年時代から夏を叔父のもとで過すが、そこで従姉のアリサを知り密かな愛を覚える。しかし、母親の不倫等の不幸な環境のために天上の愛を求めて生きるアリサは、ジェロームへの思慕を絶ち切れず彼を愛しながらも、地上的な愛を拒み人知れず死んでゆく。残れた日記には、彼を思う気持と“狭き門”を通って神へ進む戦いとの苦悩が記されていた…・」

 

巻末の石川淳の「跋」、訳者「あとがき」によると、ジッドは『狭き門』により一の峠に達した、古典的完璧への到達を見せている。この作品は、ジッドの半自叙伝的作品と考えることもできる。

 

Ⅰ ル・アーヴルに住んでいた少年ジェロームは、医師をしていた父の死をきっかけに、母がジェロームの勉強に都合がよいだろうと言って、母の友人ミス・フローラ・アシュバートンと共にパリへ移り住む。母とアシュバートンは、ル・アーヴルのそばのフォングーズマールにある、ビュコラン叔父の家に移った。ビュコランの家には、ジェロームの従弟にあたるアリサ、ジュリエット、ロベールが暮らしていた。ジェロームよりも二つ年上のアリサと一つ年下のジュリエットは、美しい姉妹。叔父の妻リュシルは、いたって器量よしだった。植民地生まれで両親を知らない孤児だったが、ル・アーヴルの牧師ヴォーティエが引き取り、16歳の頃に叔父と結婚した。父の死後2年、ジェロームは復活祭の休暇をル・アーヴルに住む母の姉プランティエの叔母の家で過ごし、すぐそばのビュコラン家を往復する生活を送る。ある日、ジェロームは叔父の家に行くと、リュシルは見知らぬ若い男と一緒にいたのを目撃した。アリサに会うと、彼女の顔には涙が溢れていた。ジェロームはアリサの悲嘆の原因がのみ込めていなかった。リュシルが家出をしたとの電報が届いた。ジェロームは再びル・アーヴルに戻り、教会では牧師が「力を尽して狭き門より入れ。滅にいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おおし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし」というキリストの言葉を読んだ。アリサは数列前の席にいたが、終わると従姉に会おうともせず立ち去った。試練に立ち向かうには彼女から遠ざかることが彼女に相応しい自分になることだと考えたからだった。

Ⅱ ジェロームは同じ中学校の寄宿舎に入った牧師の息子アベルとだけ話が出来た。ジェロームはアリサに気付かせないように、神秘な気持ちでアリサにささげていた。翌年の夏、ジェロームはアリサに自分の恋心を伝えた。翌年、心臓が悪かったジェロームの母親は死んだ。ジェロームはジュリエットにアリサと婚約したいと話したのを傍で聞いていた。ジェロームはアリサに直接婚約を申し込むが、アリサはジェロームをとても好きだと言いつつ、今のままでも十分に幸福だと答えて婚約は受け入れなかった。

Ⅲ パリに戻ると、アリサから婚約を待ってほしいという手紙が届いた。ジェロームアベルに相談すると、アベルは無防備な時にアリサを訪ねるとよいと言い、2人は一緒にフォングーズマールへ向かった。ジェロームはアリサと再会すると、今でも十分に幸福だと思い、婚約の話を進展させなかった。アベルはジュリエットと恋に落ちた。そして先にジュリエットと結婚することでジェロームとアリサを応援できると告げた。

Ⅳ アリサとの話し合いにすっかりいい気持になり、日曜ごとに手紙を書いたジェロームだが、不安はあった。叔母に相談すると、叔母はアリサが妹より先に結婚しないと言ったのを聞き出した。ジェロームはジュリエットから温室に呼び出された。ジュリエットはジェロームに、アリサはジェロームがジュリエットと先に結婚させようとしているのを知っているかと尋ね、ジェロームは驚く。アベルからも同じ話を聞かされた。ジュリエットは失神してしまった。

Ⅴ ジェロームはこれ以上姉妹に会いに来るのをやめるよう手紙をアリサから受け取った。アベルも書き置きを残して旅立って行った。ジュリエットは葡萄商人のエドゥワール・テシエールという男から求婚されていた。ジェロームはアリサから度々手紙を受け取った。手紙の中で愛を綴りながらジェロームと会うのを恐れるアリサの心情が綴られていた。そしてジュリエットがエドゥワールと結婚し、子宝に恵まれたことが記されていた。そしてジェロームとの再会の機会が近づいてきたことを告げる短い手紙が届いた。

Ⅵ ジェロームは久しぶりにアリサと再会した。しかし気づまりな時間ばかりが過ぎた。別れた後、ジェロームは、アリサから愛しているからこそ会った時に絶望を感じたことを知り、同じくジェロームも手紙で愛しているが故に会った時の苦悶を心を綴って送る。二人はその年の暮れに再会した。しかし、2人はほとんど言葉を交わすことなく、別れの言葉さえ口にせず、別れた。

Ⅶ 4月になると、ジェロームは再びフォングーズマールを訪れた。初日にジェロームはジュリエットが嫌だと思ったら、すぐにフォングーズマールを出ていくためのしるしを決めようと提案し、アリサは夕食に十字架を首にかけていないのをそれとした。ジェロームは毎晩十字架が煌いているアリサを見て安心し希望が生まれ確信を抱いた。そして遂にジェロームは2人の結婚を持ち出した。とすると、アリスはこれ以上ない幸福を感じるが、幸福になるために生まれてきたのではないと言い、清らかさを望むと言った。ジェロームの幸福は翼を広げて空へ飛び去ろうとしていた。その日の夕方、アリサは十字架をつけずに夕食に姿をあらわし、ジェロームは約束を守って夜が明けるや出発した。翌々日、アリサから奇怪な手紙を受け取り、何度もアリサから手紙が届いた。彼女は手紙のやり取りをやめようと言い、その再びフォングーズマールに来るようにと誘った。ジェロームはアリサと再会した。が、別人と思われるほどのわびしげな変わり方に驚いた。そしてアリサはジェロームに、昔の影に恋している、私は年をとってしまったと言う。ジェロームアテネ学院へ推薦され承知して出発した。

Ⅷ 3年後、ル・アーヴルにいたジェロームは、叔父が10か月前に死に、アリサに手紙を書いても返事がなかったため、わざとらしくないようにフォングーズマールに出掛けた。アリサに会うためだった。ジェロームが来ると思って3日程いつもの場所で待っていたアリサだったが、その痩せ方と色艶の悪さにジェロームは恐ろしい程胸が締め付けられた。アリサは、自分がこの上もなくジェロームを愛していたことを覚えておいてほしいと言って、十字架をジェロームに渡し、娘が生まれたら私の名前を付けてほしいと頼む。ジェロームは、アリサにキスをし、荒々しく抱きしめた。アリサは、2人の恋を傷つけないでと言って、聖書の言葉を語りかけた。これからあの《勝りたるもの》がはじまると。それからすぐにジュリエットからの手紙で、アリサが死んだことを知る。十字架を受け取り、公証人からアリサの日記を受け取る。

アリサの日記 ジェロームへの愛と徳を追及し、聖書を読み続けるアリサの日記である。

彼女の死から十年以上経ち、ジュリエットはその前年に生まれた女の子の名付け親になってほしいとジェロームに頼み、アリサと名付けた。ジュリエットはいつまでもアリサに操を立てるつもりなのねと言い、「目をさまさなければ」と言って泣いた。そこにランプを持った女中がはいって来た。

街場の日韓論 内田樹編

2020年4月25日初版

 

帯封「荒れるネット言説、政治のねじれ、歴史修正主義… 日韓をめぐるさまざまな事象は、『問題』ではなく『答え』である。11人の寄稿者が考える、日韓相互理解への道すじ。아이고(アイゴー)困っています。もつれた結び目を解くためにみなさんの知恵を貸してください。」「いまの日韓関係については、誰か賢い人に『正解を示してください』とお願いするよりも、忍耐づよく終わりなく対話を続けることのできる環境を整えることの方がむしろ優先するのではないでしょうか。クリアーカットであることを断念しても、立場を異にする人たちにも『取り付く島』を提供できるような言葉をこそ選択的に語るべきではないのか。僕はそんなふうに考えています。(まえがきより)」

 

目次

まえがき

二人の朴先生のこと          内田樹

私が大学で教えている事柄の断片    平田オリザ

歴史意識の衝突とその超克       白井聡

韓国は信頼できる友好国となりえるか? 渡邊隆

隣国を見る視点            中田考

炎上案件に手を出す者は、必ずや己の身を焦がすことになる 小田嶋隆

東アジア共同体をめぐる、ひとつの提言 鳩山友紀夫

韓国のことを知らない日本人とその理由 山崎雅弘

植民地支配の違法性を考える      松竹伸幸

卵はすでに温められている       伊地知紀子

見えない関係が見え始めたとき     平川克美

 

 

・ギルダム書院の主宰者朴聖焌先生は、私(内田)の研究者。朴東燮先生は私の書いた本を全部読んでいる。私の著作は26冊韓国語訳されているが、これは異常な数だと思う。私は自国内で調達できない種類の知見を提供できる例外的な日本人らしい。こんな需要が韓国にあるのはどうやら私がマルクシアンだからのようだ。北朝鮮を賛美はしないが、マルクスの知見に深い敬意を持つ人の居場所が韓国にはない。そういうものがなくてはすまされないということに韓国の人たちは気付きつつあると思う。

兵庫県立「国際観光芸術専門職大学」が認可されれば日本初の演劇やダンス実技が学べる公立大学となる。韓国には国公私立含めて映画・演劇学部のある大学が百近くある。文科観光体育部の独立した省庁の予算はGDP比で日本の約10倍と言われている。韓国の文化政策は国家を挙げてのイメージ戦略となっている。

日韓基本条約第2条にある「千九百十年八月二十二日以前に大日本帝国大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される。」を、日本側は「過去の条約や協定は、当時においては法的に正当で有効であったが、(現時点から)無効になると確認される」と解釈し、韓国側は「過去の条約や協定は、不法で不正なものだったのだから、(当時から)無効になると確認される」と解釈し、両者はお互いに相手の解釈について踏み込まないことが黙契された。つまり両国はそれぞれ自分たちの信じたい歴史を信じるということである。

・日本が「無限責任論」の合理性を理解し、それを実行することで、初めて韓国は謝る気持ちを持ち続けるというならば、私たちも日本を赦すべきではないかということを挙げることが出来る。東アジア経済共同体、東アジア文化共同体、キャンパスアジア構想、東アジア教育共同体、東アジア環境共同体などの創設に向けて取り組むべきではないか。これらの先にアジア共同体を実現していく。

韓国映画「ホワイト・バッチ」。見てみよう。原作も翻訳されているらしい。知らせる努力をしない、だけでなく、知らせない努力をする、という領域に入っていると感じている人がいる。鋭い感性だと思う。

・植民地支配の問題はもともと問題にされてこなかった。安倍政権だけでなく村山政権も植民地は合法であるとの見解を取り、違法であることを認めたことがない。今の徴用工問題の本質的な論点はこの論点を正面からあぶりだしているところにある。国連総会で1960年に採択した植民地独立不世宣言決議も合法説に立つ。法の不遡及という大問題が横たわっている。

 

これだけ多角的・多面的に日韓の問題を取り上げ、掘り下げようとした書物ははじめてだ。知的好奇心、刺激が大いにゆさぶられた。

 

お茶をどうぞ 私の履歴書 千宗室

昭和62年7月21日1刷

・表、裏、武者小路は俗称で、正式には千家不審庵、今日庵官休庵と呼ぶ。藪之内、遠州、石州はそれぞれ興した流儀で何々流という言い方をする。利休居士の先を遡ると、清和天皇から始まり源氏の正統を引く由緒ある武門である。日本にお茶が入ってきたのは鎌倉時代の初めで、喫茶の習慣がひとつの道になったのは室町時代。利休居士の子少庵は蒲生氏郷にお預けとなった後、千家再興が許され、少庵は現在表、裏両千家のある小川通り沿いに土地を与えられ、その子元伯宗旦が三世を継いだ。宗旦は小川のほとりの不審庵(現表千家)にこもって佗茶一筋の生活を続けた。宗旦には4人の子があり、不審庵を宗左に、隣に今日庵を建て宗室と共に移り住み、千家不審庵(表千家)と千家今日庵裏千家)が生まれた。宗守は高松藩に仕官した後、小川の下流武者小路通りに官休庵武者小路千家)を建てた。表・裏に本家分家はなく、正しく伝承する家元同士で宗簇として固い結束を守っている。

明治維新は茶道史上最大の危機だった。裏千家の当主11世玄々斎宗室は「茶道の源意」を書き、三千家連署の上で提出し、道としての茶を認めさせた。家元という形が確立したのも明治維新以降。玄々斎は大衆化への道を開き、私が15世鵬斎宗室である。同社中高大と進み、戦後復員した私はお茶をもって世界の人たちに日本人の心を伝えていくことが生き残った私に与えられた使命であり、多くの戦友のためにもお茶人としての私のなすべきことだと考えた。これが戦後の出発点となった。繰り上げ卒業となり、府立第二高等女学校(元朱雀高校)の茶儀科嘱託講師となった。

・千家では家元すなわち庵主になるためには大徳寺管長から直接、安名、道号、斎号を頂き、在家出家することになっている。アメリカでの見聞で得た体験、知識を会議所で生かしてほしいと入会を勧められ、青年会議所、京都南ロータリークラブに入会した。34年には日本青年会議所会頭に就任し、38年には国際青年会議所副会頭を務めた。ワコール社長の塚本幸一君、イセト紙工社長の小谷隆一君の3人で話し合い、大正と昭和を合体させた正和会をつくり、京都実業家ら25名がメンバーになっている。表千家では同門会、裏千家淡交会という手前・作法の全国統一、同門社中の結束と親睦を目的とする会員組織がある。淡交会は社団法人としての認可を受け、理事長を務める私は総会で青年部創設を提案した。また将来の指導者育成のために茶道研修所(現裏遷化学園)を始めた。唯一の茶道教育の専門学校として学校法人の認可も受け、各学年30人、外国から常時15人、社会人を対象にしたコースも設けている。

・お茶盌を回すのは、亭主が差し出した正面から飲むのを遠慮して後ろから頂きますという意味で回す、大きく回せば1回、小さく回せば2回で後ろになる。謙虚に、自分を一歩下げてありがたく頂戴するという教えに基づく。懐石は元来は禅の世界から出ている。茶事では湯加減を整える間に懐石料理が出される。

紫匂う《下》 葉室麟

2022年5月20日発行

 

雫亭に向かって3人は蔵太を先頭に道なき道を歩いて行く。澪を背におぶった蔵太は「ひとは誰も様々な思いを抱いて生きておる。そなたの胸にもいろいろな思いがあろう。そなたの心持ちが葛西殿へ通じておるのであれば、心に従って生きるのを止められぬ、とわたしは思った。しかし、そうでないのならば、わたしとともに生きて参ろう。たいしたことはしてやれぬかもしれぬが、危ういおりに、ひとりでは死なせぬ。ともに死ぬことぐらいはできるぞ」と告げる。途中で足を痛めた蔵太は、澪と笙平の2人を雫亭に向かわせた。2人が無事雫亭に到着すると銃声が聞こえ、澪は芳光院が止めるのも聞かず夫の蔵太の下に戻った。澪は蔵太と再会し2人で再び雫亭に向かった。が山狩りの連中に囲まれ、蔵太のライバル七郎兵衛が現れ、鉄砲隊も蔵太らを取り囲み、絶体絶命のピンチに陥った。そこに蔵太に面倒を見てもらっていた山の民が現れて蔵太と七郎兵衛の一騎打ちとなった。蔵太は澪を庇いながら七郎兵衛を討ち取り、2人は芳光院に謁見した。芳光院は澪だけを雫亭に残し、2人を連れて詮議に臨んだ。澪の前に志津が現れ、自害せよと迫ったが、澪は恥じることはしておらず拒否し、女は刃で戦わずとも心映えで戦えると言い切り、志津を追い返した。蔵太は澪のいる雫亭に戻り、「ひとの生き様はせつないものだな」というと、澪は「わたくしにも迷いがあったように思います。どうすればひとは迷わずに生きられるのでしょうか」と返す。蔵太は「さようなことはわたしにもわからぬ。ただ、迷ったら、おのれの心に問うてみることだと私は思っている」、「知恵を働かせようとすれば、迷いは深まるばかりだ。しかし、おのれにとってもっとも大切だと思うものを心は寸分違わず知っている、とわたしは信じておる」と語り、蔵太の答えが澪の胸にしみ渡った。澪は屋敷でなく雫亭に咲いた紫草を見つけた。作品は冒頭で、澪が男の名を叫び、その名を澪は夫に聞かれたのか心配する場面から始まるが、澪は果たして誰の名を叫んだのか、終盤で明かされる。もしかしたら笙平の名を叫んでいたのではないか?と不安がる澪だったが、そうではなかったと知って、きっと全ての読者は安堵することだろう。蔵太と澪の間に誕生した2人の子由喜と小一郎は清涼剤のようだ。この両親にしてこの子あり。特に由喜はこまっしゃくれた言葉であるが、両親の帰りを待つ際、祖父母に対し、「父上はとてもお強い方ですが、お心はこの小さな花のようにやさしい方です。どんな大敵をも恐れず、小さきもの、弱きものには常にやさしい心を注いでおられます。そのような父上こそ、まことの武士だとわたしは思っています」「私は小一郎に父上のような強いだけでなく、思い遣り深い武士になって欲しいと思います」と語り、2人が必ず無事に帰ってくるのを確信しているあたりは、なんとも微笑ましさを覚える。