“明日”を追う 私の履歴書 宮内義彦

2014年11月17日1版1刷

 

帯封「オリックスと歩んだ50年 『日本にリースを根付かせる』たった13人で立ち上げた会社は、やがて世界にも類を見ない多角的金融サービス企業へと成長した。事業の多角化、球団買収、NY上場、規制改革への取り組み―日本経済新聞私の履歴書」をまとめた初の自伝。日経電子版「経営者ブログ」も収録。」「

 

目次

はじめに

第1部 私の履歴書オリックスと歩んだ50年(経営者として―日々ひたむき、前向きに

第2部 経営者ブログ

第1章 企業経営を語る

第2章 若者・女性に期待する

第3章 この国の未来を考える

おわりに

年譜

 

第1部

・1935年9月13日神戸市生まれ。9歳で玉音放送を聞いた。敗戦体験は人格形成に影響を及ぼした。関西学院中等部に入学。小学校の成績は1,2番の常連だったが関学生になるとビリから数えた方が早くなった。私費で2年間の米国留学。帰国後ニチメンに就職。調査部から海外統括部に異動するとサンフランシスコに行きリース業の研修を受けた。オリエント・リース設立準備事務所の旗揚げとなり、12人の男が集められ、リース業のイロハを伝授した。上場の準備を始めた。ニチメンからオリエント・リースに転籍となり、部長職の待遇となった。34歳で取締役に就任し、大証2部上場にこぎつけた。順調に名証2部、東名阪1部上場を果たし、香港、シンガポール等々、1年1社のペースで海外ネットワークを広げた。石油危機で借入が膨らみ74年には借入金残高が1千億円を超えた。社長の乾恒雄さんとは25歳差があったが、40歳の時、後継宣言を受けた。45歳で社長に就任した矢先、B型肝炎で入院。自動車、オフィス向け内装品、機械設備を計る機器、船舶や航空機のリースなど業態を拡大した。船舶の数が過剰になり船舶不況が到来したのは石油危機に続く2度目の試練だった。球団を買収し、バブル崩壊前に不動産投資に慎重姿勢に転じたお陰で何とか命脈を保った。98年にNY上場を果たし、金融分野にも進出し、オリックス生命保険オリックス証券オリックス信託銀行を設立。リーマン危機で金融市場は底が抜けるという教訓を得た。貸付業務を伸ばして成長するのは難しいと判断して新たな開拓分野に照準を定めた。規制改革の議論に加わったのは90年に発足した第三次行革審の下に「豊かなくらし部会」が発足し、委員となったのがスタート。細川さんが部会長で熊本県知事時代の経験から規制緩和論者となったが、遅々として進まなかった。95年に規制緩和小委員会が発足し、11分野1797項目の改革を実行することになり、日本IBM会長の椎名武雄さんの後任を仰せつかり、中央省庁再編と同時に発足した総合規制改革会議の議長となった。小泉首相の登場はその直後。06年10月、竹中総務相のアドバイスで電撃辞任して議長後任を日本郵船会長の草刈隆郎さんに譲った。規制改革の中でオリックス風評被害を受けた。

 

第2部

・過度な企業救済は日本にぬるま湯体質を蔓延らせる。ゾンビ企業の量産体制のままでは、日本の構造改革がなされても市場は機能しない。

・2015年4月から施行された改正学校教育法と改正国立大学法人法は、本格的な大学改革の第一歩となる画期的な法改正。学校教育法の改正で、従来「重要な事項を審議する」のが教授会の役割とされていたが、改正法で「学長に意見を述べる」のが主な役割になった。実質的な意思決定機関から諮問機関への変更。教授会の献言が狭められ、学長はリーダーシップを発揮しやすくなった。国立大学法人法では、学長が学内の多数派工作などで選ばれないようにするため選考基準や結果の公表が義務づけられた。理事会で経営方針を決め、学長が中心となって執行する、大学改革にはこうしたシンプルなガバナンスが必要で、今回の法改正はそれに道筋をつけるはず。

海の見える理髪店 荻原浩

2019年5月25日第1刷 2019年6月26日第4刷

 

裏表紙「店主の腕に惚れて、有名俳優や政財界の大物が通いつめたという伝説の理髪店。僕はある想いを胸に、予約をいれて海辺の店を訪れるが…『海の見える理髪店』。独自の美意識を押し付ける画家の母から逃れて十六年。弟に促され実家に戻った私が見た母は…『いつか来た道』。人生に訪れる喪失と向き合い、希望を見出す人々を描く全6編。父と息子、母と娘など、儚く愛おしい家族小説集。直木賞受賞作。」

 

海の見える理髪店は、昭和を代表する大俳優が通っていた店として有名だった。ネットで予約した客は、グラフィックデザイナーだった。客から髪型を任された店主は、職業を聞いた。どういった髪型にするのかのヒントにしていた。店主は自分の来し方を話し始めた。父の理髪店で修業を始め、最初は床掃除しかやらせてもらえなかった。終戦後、店に戻ったが、父が急逝し、店を継いだ。慎太郎刈りが上手い店だと評判になり、軌道に乗った。ビートルズが流行り出すと、店は左前になった。店主は遠い親戚筋の店の雑用をしていた秋田の女性と結婚したが、ある時、突然出て行ってしまった。銀座に2号店を出した時、2人目の女房を貰った。2号店の経営がうまくいかなくなると酒に逃げ込んだ。その後、息子も生まれた。50過ぎで出来た子供だったので可愛がった。剃刀を持った店主が実は「人を殺めたことがある」と告白。一緒に店をやっていた男をヘアアイロンで殴った。傷害致死だったので、服役期間は短かった。シェービングは終わった。1時間程経っていた。刑務所で理髪係をして重宝されていた。最後は顔のマッサージだった。出所後、東京を離れて海の見える町で理髪店を始めた。店に大きな鏡を置いたのは海を見てもらうためだった。私ではなく。客は原田と言った。原田は来週結婚式があると言った。お互い(親子だと)分かっているけど、言葉は喉の奥にしまい込んだ。

 

いつか来た道

画家で独自の美意識を押し付ける母の体の具合が悪いと弟から聞かされて、久しぶりに実家に戻った。母と言葉を交わしたのは16年ぶりだった。幼い頃から自分の夢を娘に押し付けた母への虐待に等しい仕打ちを受けたことへの復讐のつもりでもあった。が、やり取りしていてどうして弟が母に会いに行くように言ったのか、わかった。年老いて認知症になっていた。絶対に言うつもりのない言葉「また来るから」と言って娘は帰った。

 

遠くから来た手紙

仕事を優先する夫を独り置き去りにして突然実家に帰った妻。すぐさま実家に迎えに来るかと思いきや、週末に行くとの夫からのメールが届く。梨農家の実家で手伝いをしていた妻は重労働に音をあげる。実家で中学時代からやり取りした手紙を見返してほっこりした。妻から昔言葉でメールが届き、てっきり夫からのメールかと思いきや、あの世から祖父が祖母に宛てたメールが妻に届いているようだった。妻は中学時代に夫から貰った手紙を1通だけ持ち帰って東京に戻った。

 

成人式

事故で亡くなった娘の代わりに、娘の同級生たちに助けられながら、若作りをして成人式に出る両親のお話。なかなか泣かせる。

 

その他、「空は今日もスカイ「時のない時計」も収録。

 

 

私の履歴書 本田宗一郎(本田技研工業社長) 経済人6

昭和55年8月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①浜松在の鍛冶屋に生まれる

②自動車修理工場にデッチ奉公

③小僧と二人で「浜松支店」

④料亭の二階から芸者を投げる

ピストンリング製造に苦闘

⑥バイクからオートバイ造りへ

⑦東京に進出、初の四サイクル

⑧借り着で藍綬褒賞を受ける

⑨不況下に不眠不休で代金回収

⑩国際レースに勝ち世界一へ

⑪米国なみの研究費をつぎ込む

⑫社内にしみ渡る理論尊重の気風

 

・明治39年浜松生まれ。小学校時代から無類の機械好きだった。飛行機が来て飛んで見せるという話を聞くと学校を休んで木に登って実際に見て感激した。貧乏暮らしで金持ちの隣の家から差別されたことは幼心に刻まれた。高等小学校を卒業すると、上京して自動車修理工場を持つアート商会のデッチ小僧になった。ただ来る日も来る日も赤ん坊の子守ばかりさせられ、半年経って初めて修理の仕事に携わった。この時の感激は一生忘れられない。関東大震災で自動車運転、オートバイ散歩、修理技術を覚えた。主人に信用されて、“のれんわけ”してもらい、22歳の時、浜松でアート商会浜松支店の看板を掲げた。よその工場でなおらなくも私の工場に持ち込まれるとなおったということで評判になり、初年度で利益が出た。31歳の時、全日本自動車スピード大会に自作のレーサーを駆ってゴール寸前120キロを超えた。が横から修理中の自動車が出て来て事故に巻き込まれた。120キロは新記録だった。修理工場を閉め、東海精機株式会社を作りピストンリングの製造を始めた。鋳物の研究に取り組んだがうまくいかず、浜松高工の聴講生となって勉強した。製造にとりかかり9カ月経過してようやく製作に成功した。試験は休んだので退校を言い渡された。トヨタに納品として合格するまでに2年かかったが、自動式に改良した。プロペラのカッター式の自動削り機を考案したが、終戦となった。東海精機をトヨタに売り渡した金を元手に、織物機械を作ろうと、終戦の翌年、本田技研研究所を設立した。織機の次にモーターバイクを手掛けると、これが評判になった。エンジンを自前で作り、自転車に小型エンジンを取り付けたモーターバイクの後、オートバイ“ドリーム号”を完成させた。それからわずか十数年で従業員五千人以上、年間売上一千億円の会社に成長した。販売の藤沢専務といわれる藤沢武夫君との出会いはドリーム号が完成した昭和24年8月だった。自転車につけるエンジンを従来の重いものから軽いものにしようと研究して作ったのがカブ号のエンジンだった。小型エンジンの発明で藍綬褒賞を頂いた。46歳で最年少者だった。29年、TTレースに参加する宣言をした。現地のマン島で実際に見ると、ライバル社の気筒容量は3倍もあり、ビックリしたが、帰国後直ぐに研究部を設け、36年にはTTグランプリで優勝、最優秀賞を獲得し、世界一のオートバイを作り上げる野望を遂げた。会社経営の根本は平等にある。99%は失敗の連続だった。1%の成功が現在の私である。人の一生も功罪で評価すべきで、死んでから受ける評価が本当の私の履歴書である。(昭和48年より本田技研取締役最高顧問)

生きる 乙川優三郎

2005年1月10日第1刷 2010年3月20日第7刷

 

裏表紙「亡き藩主への忠誠を示す『追腹』を禁じられ、生き続けざるを得ない初老の武士。周囲の冷たい視線、嫁いだ娘からの義絶、そして息子の決意の行動—。惑乱と懊悩の果て、失意の底から立ち上がる人間の強さを格調高く描いて感動を呼んだ直木賞受賞作他、『安穏河原』『「早梅記」の2篇を収録した珠玉の中篇集。解説・縄田一男

 

生きる

2年ほど江戸で病臥している藩主・飛騨守の容態が思わしくない。筆頭家老の梶谷半左衛門から石田又右衛門と小野寺郡蔵は呼び出された。用件は、あと十日のお命と思われる中、追腹をしそうな二人を呼び出して、追腹の禁令を出し、追腹を止めさせる相談だった。梶谷は忠義のために追腹を止めることはできないという小野寺に先腹なら嫡男に迷惑はかからないから直ちに先腹をとも、死んだつもりで生きてくれとも言う。二人は誓紙をしたため、追腹をしないことを誓った。藩主が亡くなると、禁令があろうとも詰腹をするのが当然であろうと又右衛門に詰め寄る者や禁令を無視して追腹する者も現れた。娘の夫・真鍋恵之助も追腹した一人だった。娘から夫の追腹を思いとどまるよう説得を頼まれていた又右衛門は悔やんだ。日が経つにつれ、周囲の又右衛門への視線は冷たくなった。最も追腹を切りそうな男が何故生きているのか。城は針の筵となった。子の五百次も追腹で死に、妻もほどなく病で死んだ又右衛門は久方ぶりに小野寺に会ったが、2人とも全く精彩を失っていた。恨みつらみを全て書いて吐き出して死のうとした又右衛門だったが、書き出すと闇の中に一条の光が差し出した。12年が経過した。又右衛門は隠居した。相手が誰であろうとも決して弱みを見せない顔になっていた。家老が詫び状を送ってきたところで今更何になろう。悔恨や寂寥は腹に仕舞って顔に出ない。成長した娘と息子に再会した又右衛門は2人を見つめおろおろと泣き出した。

 

安穏河原

逼迫した藩の財政を立て直すために藩が講元となり領民から金を集めることに反対した双枝の父羽生素平は、藩に金集めでなく藩の歳出を切り詰め、窮民を救うことが先決だとする筋の通った意見書を提出したが、採用されず国を出て江戸に入った。が世間の厳しさを思い知り、満足に食べることも出来なくなると、娘の双枝を遊郭に売り飛ばした。後悔した素平は伊沢織之助に頼み、客として娘の様子を見てもらっていたが、双枝は厳しく育てられたせいもあり、織之助が鰻を取ってやっても、双枝は父から教えられた通り「おなか、いっぱい」と答え、人から物を恵んでもらうことを潔しとしない人としての誇りを持ち続けた。娘を助け出すと約束した期限の6年が間もなく経とうとしたが、身請けの金を用意できなかった素平は藩屋敷を訪ね、武士として切腹したいと申し出、家老の許しを得て切腹を果たすと家老は30両を同行した織之助に渡した。織之助が双枝がいる女郎屋を訪ねると、警動の貼り紙があるだけで、双枝の行先が分からくなっていた。6年が経った。織之助は30両を一部拝借して商売を始め、拝借した分はきちんと溜め直した。ある時、道で出会った団子を見ていた童女に団子を買ってやろうとすると、「おかな、いっぱい」と答えたので驚いた。母親のことを尋ねると、武家の出だったが、2か月前に亡くなったという。双枝が母親かは分からない。が童女に、今見える河原の眺めをよく覚えておくんだよと語りかけ、できることなら双枝が見た河原に変えてやりたかった。

 

早梅記

高村喜蔵は出世に意欲を燃やし、実際に出世を果たしたが、妻を亡くし、鬱々とした日々を過ごしていた。賄賂で出世を手にする者もいたが、喜蔵はそうしたくなかった。喜蔵は命がけで使者を務め、昇格を果たした。かつて下女として働いていた”しょうぶ”は、妻を迎えるまで事実上の妻だった。妻を迎える前に、しょうぶは自らの匂いさら消し去って出て行った。”しょうぶ”の行方はその後聞かなかった。妻は明るい声でよく笑った。妻との間で子をもうけ、大目付に昇進した。子から、母上を大事にしてあげてくださいと言われると、生意気な事を言うなと子に返事をした。子は憎しみに燃えるまなざしをしていた。このままではいけないと思いつつ、役目に追われて溝を修復する暇もなかった。退身後、残ったのは屋敷と高禄と気持ちの通わない家族だけであった。妻は呆気なく死んでしまった。喜蔵はしょうぶと妻の二人に支えられて生きてきた。散歩道でしょうぶと23年ぶりに再会した。しょうぶは人間違いと言い、貧しい暮らしの中にも幸福は生まれるという態度を取った。いまも潔さと強さを兼ね備えていた。小さな蕾をつけた白梅の枝を差し出された喜蔵はこれを手にし、いつになく穏やかな気持ちになって散歩道を歩いた。

 

心淋し川 西條奈加

2020年9月10日第1刷発行 2021年1月30日第3刷発行

 

心淋し川

心(うら)町で生まれ育ったちほは、志野屋という仕立屋から仕事を回してもらい、父と母の生活を支える19歳だった。姉は一足先に嫁に行き家を出ていった。ちほも早く家を出て、上絵師の元吉と一緒になりたかった。ところがある日、飲んだくれの父親の荻蔵が若い男を飲み屋でぶん殴ったという知らせを茂十から聞いた。飲み屋は元吉がよく行く店だったので、急いで飲み屋に向かった。飲み屋で、ちほは、父親から元吉は止めておけと言われた。元吉は京都で修業することを決めていた。その事を兄弟子に相談し、それをたまたまそばで父親が聞き、元吉を殴ったというのが真相だった。元吉の決意を知り、ちほは、大人になった。茂十は心川の本当の名は心淋し川だと教えてくれた。志野屋の手代からちほは告白された。恋心は到底抱けそうにないが、4年もの間、針運びを見てくれた人がいるのを知って心が温かくなった。

 

閨仏

りきは六兵衛の長屋に住み始めて14年が経っていた。この家には六兵衛の妾が4人もいてりきが一番年上だった。いずれも不美人で、りきはおたふく顔だった。20歳で妾になったりきだったが、4年後、年下のつやが妾としてやってきた。ある時、六兵衛が持っていた閨の道具(張形)に小刀で地蔵顔を掘った。後日それを見た六兵衛は大喜びし、りきに何十体と彫らせた。ある時、りきは本物の仏師に出会った。仏師は、りきの彫った仏にちゃんと心が宿っていると涙を流した。仏像見学のために寺参りを始めたりきだったが、間もなく六兵衛は長屋で死んでしまった。内儀が現れ、手切れ金として一人一分ずつ渡した。仏師がりきを引き取りに来た。が、りきは仏師に断りを入れた。りきはこれからも道具を彫り続け、それで4人一緒に暮らすつもりだった。

 

はじめましょ

すべてが四文銭で片がつく『四文屋(しもんや)』は先代の稲次が始めた。与吾蔵は先代から場末の店を受け継ぎ、やり甲斐を感じていた。ある日、懐かしい歌が聞こえた。6,7歳の少女が歌う「はじめましょ」だった。与吾蔵はかつて深い仲になった仲居のるいからその歌を聞いた。るいは身籠ったが、誰の子は分からないから堕ろせと言った。るいは与呉蔵の前から姿を消した。少女はゆかと言った。ゆかは母親の名はるいではないと言った。しかし、その後もゆかと会い、ゆかの母親が仲居だと聞いた。そんなある日、ゆかを迎えに来た母親に与呉蔵は出会った。母親はやはりるいだった。れんが本名だった。卵焼きを食べさせると、ゆかは喜んだ。与呉蔵はるいとやり直しをしたかった。そんな矢先、るいが訪ねてきた。ゆかは与呉蔵の子ではなかった。赤ん坊は生まれて直ぐに亡くなり、その時に拾った子だった。茂十が「はじめましょ」の続きを教えてくれた。全てを知った与呉蔵は、正月早々に改めてゆかに会いに出かけた。

 

冬虫夏草

薬種問屋「高鶴屋」の息子富士之助は、学問に興味を全く示さず堪え性がなかった。色街に出掛けて遊び惚ける生活をしていたが、母の吉は気にしなかった。富士之助が油問屋の江季を嫁に貰うことは富士之助の世話を焼く楽しみを奪われるために反対だったが、富士之助は嫁を貰った。ところが侍から大怪我を負わせて歩けない身体になり、吉は嫁を実家に帰し、再び富士之助と二人暮らしを始めた。ところが次第に心がすさんでいく富士之助は吉に対して暴言を吐き続け、周囲の人は辟辟としていた。ある日、差配の茂十が吉を訪ねて、江季の実家が富士之助と吉の面倒を見ると言ってくれているのを伝えるが、吉はこれを断る。かつて高鶴屋に出入りしていた都賀七も吉や富士之助を援助しようと茂十を通じて申し出るが、これも吉は息子のためなら苦労とは思わないと言いながら、断る。そして吉は茂十に意味ありげな視線を向け、茂十を近寄らせなかった。

 

明けぬ里

ようは博打で借金をこさえた父親のせいで、15で姉の代わりに色街に売られた。ようの気性は激しく納得が出来ないことには誰彼となくケンカした。そんなようにも旦那が付き、夫婦となり、身籠った。ある日体調を崩したところにかつて同じ遊郭で一緒だった、一番の美貌を持つ明里に助けられた。明里は久しぶりの再会を喜んで昔話に花を咲かせた。旦那の子を身籠ったことを伝えると、明里も同じように身籠っていたが、何やららしくない態度を取った。後日、差配の茂十が明里が手代と心中したことが読売に載ったことを教えてくれた。やや子の父親は旦那ではなく手代だと思うと、ようは涙が止まらなくなった。旦那に身籠ったことを伝える決心がついた。

 

灰の男

茂十の本名は久米茂左衛門と言った。全編に唯一登場する茂十は諸色掛りの役目についた。12年に渡って心町に住んでいるが、それには理由があった。江戸を騒がせた夜盗の頭、地虫の次郎吉に息子の修之進は関心を寄せた。次郎吉に息子を殺された茂十は次郎吉の似顔絵を描かせた。次郎吉は楡爺だった。そのことにずっと囚われ、妻も亡くしていた。彼を監視するために差配となったが、楡爺がぽっくりと逝ってしまった。あれから2年経ち、ちほは志野屋の手代と祝言を挙げることになり、婚礼に茂十も呼ばれていた。

映画は狂気の旅である 私の履歴書 今村昌平

2004年7月5日第1刷

 

目次

割りの悪い仕事-まえがきにかえて

第1章 早熟な都会のお坊ちゃん

第2章 鬼の今平

第3章 常民を撮る、神を撮る

第4章 創造の曠野へ

今村昌平・全作品リスト

親父の横顔―息子から見た今村昌平天願大介

 

・大正15年9月15日、耳鼻咽喉科を開業していた父と母竹節の末っ子として生まれた。小学校は東京府女子師範(現東京学芸大学)の附属に入り、東京高等師範(現筑波大学)附属中学、桐生高等工業学校(現群馬大学工学部)へ進んだ。戯曲を書き始めたのはこの頃。終戦後、早稲田の文学部に入り芝居に夢中になった。三船敏郎が登場する映画「酔いどれ天使」を見て感動して映画監督になることを決意した。松竹大船撮影所の試験に通り入所し、小津安二郎監督の下で助監督の一番下っ端としてついた。小津監督の下で3本つくと、小津さんの演出に不満を持ち小津組を勘弁してもらった。それでも今振り返ると、小津さんには多くのことを学んだ。キャメラ位置一つにしても自らの美意識に従って執念深く最適の場所を探し求め、それでよいと決まれば今度は断固として崩さない。監督はかくあるべしと檻に触れて小津さんを思い出し、その姿勢を肝に銘じてきた。昭和29年に日活に移籍し、宇津さんに次いで2人目の師となる川島雄三がやってきた。31歳で、長門裕之南田洋子が主演する「盗まれた欲情」でブルーリボン新人賞をいただいた。「にあんちゃん」では芸術祭文部大臣賞を受賞した。39歳で独立し今村プロダクションを設立した。「神々の深き欲望」ではキネマ旬報第一位や毎日映画コンクール日本映画大賞、芸術選奨文部大臣賞などをいただいたが、2年越しの撮影がたたって二千万円ほどの借金を抱えた。その後資金難から劇映画を撮れなくなる。テレビ向けドキュメンターを手掛けた。日本で初めての映画学校「横浜放送映画専門学院」を創立し、学院長に昭和50年就任した。11年ぶりに劇映画「復讐するは我にあり」にとりかかった。原作は佐木隆三のノンフィクションで、38年に起きた、西口彰の五件連続殺人を描く。緒形拳を配役した。この作品は役者の力量が発揮され、キネマ旬報毎日映画コンクールブルーリボン日本アカデミー賞などで最優秀作品に選ばれた。映画の出来はシナリオ六分、配役三分、演出一分で決まる。「楢山節考」がカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したのが昭和58年5月19日。2度目のパルムドールをとった「うなぎ」は実話を採用している。井伏鱒二の「黒い雨」を撮ろうと決めたのは弟分の浦山桐郎監督が54歳の若さで急死したのがきっかけである。彼が映画化従っていたのを知っていたからだ。撮影日程半ばで資金が底を尽き、岡山バイオ企業の林原健社長を訪ねて協力を得て乗り切った。

一神教と帝国 内田樹 中田考 山本直輝

2023年12月20日第1刷発行

 

表紙裏「第一次世界大戦後、西欧列強が『国民国家』を前提とし中東に引いた国境線。それが今なお凄惨な戦争の原因になっている。そのシステムの限界は明白だ。トルコ共和国建国から100年。それはオスマン帝国崩壊100年を意味する。以来、世俗主義を国是とし、EU入りをめざしたトルコ。だが、エルドアン政権のもと、穏健なイスラーム主義へと回帰し、近隣国の紛争・難民など国境を超える難局に対処してきた。ウクライナ戦争での仲介外交、金融制裁で経済危機に直面しても折れない、したたかな『帝国再生』から日本が学ぶべきこととは? 政治、宗教からサブカルチャーまで。ひろびろとした今後の日本の道筋を構想する。」

 

目次

プロローグ 「帝国」をめぐる、新しい物語を探して 内田樹

第1章 現代トルコの戦国時代的智慧に学ぶ

第2章 国民国家を超えたオスマン的文化戦略を考える

第3章 東洋に通じるスーフィズムの精神的土壌

第4章 多極化する世界でイスラームを見つめ直す

第5章 イスラームのリーダーとしてトルコがめざすもの

第6章 日本再生のために今からできること

エピローグ I トルコに学ぶ新しい帝国日本の転生 中田考

エピローグ II 明日もアニメの話がしたい 山本直輝

 

・トルコの「できます」は、古代ギリシャの論理学的な意味で、日本語の意味とだいぶ異なる。1%でも可能性があれば「できる」になる。それが結果的に実現しなくても、可能であることもそうでないこともどちらもありえたが、神の意志により今回は実現できなかった、ということになる(中田)。トルコ語で「はい」というときは「オラビリル(olabilir)」と言うが、これはポッシブルの意味の「ありうる」という言い方。その未来はありうる。それを実現するのは自分の頑張りと神の導きということになる。神は何でもできるので、神学的にありえないということはありえない。だから、「いいえ」「できません」と言っちゃダメ(矢本)。

・シリアの難民が入ってきたせいで、イスラーム学のレベルが一気に上がったとか、民族を越えたムスリムのコミュニティで日本のサブカルが親しみをもって共有されている話は初めて聞いた(内田)。

・今、若者の間に教養がなくなってきているが、『NARUTO』のような人気漫画が、昔の古典にあたるような現代の若者の基礎教養になりつつある(中田)。

・日本の少年マンガイスラーム文明、特にスーフィズムが大事にしてきた師匠と弟子、教えや「型」の伝承、不完全な人間が精神的完成を目指すプロセスなど、伝統的な「ビルドゥングスロマン教養小説)」の構造を保っている。つまり、マンガを読んでいる日本人は、実は中東に関するニュースを追うよりもずっとイスラーム世界を「味わう」ための語意や世界観を持っているのかもしれない(山本)。

歴史修正主義者は、国民を「疚しさ」から解き放つことで、民族差別や排外主義といった暴力を解き放ってしまう。司馬史観日露戦争から敗戦までのおよそ40年間を「のけて」、明治の青年国家から中を飛ばして戦後の民主日本に「飛ぶ」が、この「のけた」40年こそ日本が中国大陸や朝鮮半島ともっとも深い関わりを持っていた時期。それがどんなに忌まわしい事実であったにせよ、事実は事実としてきちんと物語るべき。歴史から学ぶことをやめてしまうと、その国は精神的に次第に衰え始める(内田)。

・(イスラーム世界では)勉強したいと思うと、初心者であっても、お金をかけずにものすごくレベルの高い人の授業にも参加できる。イスラーム文化では、20分でも30分でも教えの恵みを受けると、身の一部になるという考え方がある。「バカラ」は神から与えられる恩寵という意味だが、その恵みがある(山本)。

論語の「述べて作らず」は自分がオリジナリティだと主張せず、ただの祖述者というポジションに身を置くので、生産性があがる。オリジネーターだと、その意義を100%理解していることになるため、100%理解していることしか言うことができないが、「述べて作らず」だと、意味は分からないけれども師匠はこう仰っているから、これがどういう意味なのか皆さんも考えてくださいと、次の世代に「パス」することができる(内田)。

・人間はなぜ宗教というものを作り出したのか。それは「超越」とか「外部」とか「他者」とか「空」とか「仁」とか、そういう定義不能な概念を持ち込んできて、それについてああでもないこうでもないと熟考することを通じて脳の機能が飛躍的に向上することが経験的に分かっていたからではないかと思う(内田)。

イスラームにおいて一番勉強熱心なのがタリバン。私はタリバンが今、世界で一番知的な人たちだと思っている。タリバンは女性蔑視で女の子たちに学校も行かせないじゃないかという、西側諸国の批判があるが、タリバンは女性の教育を禁止しているわけでなく、理由があって禁止しているだけ。無教養の人たちがタリバンは生ぬる過ぎるといって学校に通う女性たちを襲うため、その危険があるから今は学校に行くのを我慢してくれと言っている。西側の人々はその事を全く理解しない(中田)。

アメリカの憲法では、陸軍は行政府じゃなくて立法府に属している(内田)。軍隊は「武装した市民」によって構成されるべきであって、常備軍は市民に銃を向ける可能性があるから持つべきではないと考える人が建国時点では多数だったことを反映している。バイデン大統領が43兆円まで国防予算を増やせと言い出したのは不要不急の大型固定基地を保持し、大量の兵器を購入することで、米軍と兵器産業の利権を守るという米政府がやりたくない仕事を日本に肩代わりさせるためである(内田)。

ミスター・サンシャインは見てみたい。ゴールデンカムイ、パチンコ、街場の日韓論は是非読んでみたい。いずれにしても、今までに想像していたのとまったく違うイスラームの世界を垣間見ることができただけでも大変良かった。今年読んだ中で一番面白い本である。