昭和55年11月4日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷
①裁判官を父に中国地方を転々として育つ
②けんかに明けけんかに暮れた少年時代
③六高入学―勉強より柔道一筋の猛練習
④ウィーン警視庁で53歳の“真剣勝負”
⑤大学時代―試験準備で料亭に泊り込み
⑥浅野から富士へ―会社再建に粉骨砕身
⑦「日鉄合同」で九州・八幡製作所に転任
⑧北海道で終戦―経済安定本部の次官に
⑨日鉄解体―広畑製鋼所の確保に全力
⑩生まれ変わった富士製鉄の社長に就任
⑪“太平洋経済委”通じ民間経済外交を促進
⑫独断で対印融資決定―日印協力の礎に
⑬八幡・富士合併で軽罪体質改善の口火に
・明治33年松江生まれ。父は裁判官。小6の時、父が亡くなる。弟が父の果たせなかった責任を継いで弘願寺の住職となった。中学卒業後、岡山第六高等学校へ入学。東大法学部に入っても柔道は続けた。卒業後、浅野物産に入社したが、1年足らずで富士製鋼に移る。富士製鋼の社長を19年したが資金繰りについては身の縮む思いをした。富士製鋼は日本製鉄に合併され、日鉄の富士製鋼所の所長になったが八幡に来いと言われ八幡に行くことにした。東京の日鉄本社に転勤になると、鉄鋼業界に統制会が設けられ日鉄を退社して統制会に移り原料を担当した。公平に原料を配分することで生産性を向上するのは経済的かつ合理的だった。原料統制会社の社長に就任した後、北海道、東北、九州の三支部に独立したため北海道支部長に任命され北海道へ渡った。戦後北海道で百姓をやるつもりだったが日鉄社長の渡辺義介さんから呼び戻され東京に戻った。営業担当の常務になり、経済同友会を設立した。経済安定本部に来るよう請われたが何度も断った。が断り切れずに昭和22年から役人生活を始めることになった。安本を1年でやめ日鉄に戻ったがGHQから分離を求められ八幡と北日本に別れ、北日本が今日の富士製鉄となった。東海製鉄を立ち上げ名古屋製鉄所に高炉二基を持った。八幡と富士の合併は昭和44年に実現できるよう進めている。これが実現できれば交錯輸送が解消され年間数十億円の輸送費が軽減できる。世界一国論。遠からず世界が一つになる日が来る。これが世界にもたらす永遠の平和への道ではないか。(昭和45年富士、八幡両社が合併してできた新日鉄の会長に就任。48年同取締役相談役。44年より日商会頭)