松永安左エ門(電力中央研究所理事長)私の履歴書 経済人7

昭和55年9月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①私は一種の失敗者だ

慶應義塾福沢諭吉先生に接見

③逆境で自分を見直す

④福博電軌の専務で不眠不休

⑤北九州の電気、交通両業を一つに

⑥議員時代・野党で反骨精神発揮

⑦東邦電力設立で苦労

⑧五大電力争覇時代の流れのなかに

⑨電力外債で政府・金融界が募債援助

⑩九州鉄道のこと

⑪官僚統制に全面的敗北を喫す

⑫五十代から登山を始める

⑬創意工夫・努力と熱で

 

明治8年12月1日長崎県隠岐生まれ。祖父と福沢諭吉の影響を強く受けた。慶応に進み、朝5時の散歩のお供をした。株は単に金銭を取り合っているにすぎず社会の富は少しも増えない、社会の進歩、発展と無関係だと悟り株の投機に手を出すことは一切やめた。日銀を1年目で辞め、丸三商会支店長になったが1年と続かず、福松商会で石炭、電車の浮き沈みの激しい事業を起こし、九州電気を設立した。次に九電鉄を発足させ、衆議院議員となった。東邦電力社長として中京地方の電気事業の建て直しを行った。民有民営を目指したが、戦争拡大に連れ統制が強くなり民有国営の日本発送電株式会社の設立となり私にとって全面的敗北、失敗の最たるものになった。70歳で産業計画会議を設立し、国家の新しい国造りの設計図、将来の経済計画を立てようとスタートした。エネルギー、道路、国鉄、たばこ、北海道開発、海運業、ダム、東京湾埋め立て等である。根底は自己中心の考え、自愛でなく、互助、平等の他愛の精神を持つことである。これは世界平和につながり、同時に我々が発展していく道である。(昭和46年6月16日死去)