私の履歴書 本田宗一郎(本田技研工業社長) 経済人6

昭和55年8月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版9刷

 

①浜松在の鍛冶屋に生まれる

②自動車修理工場にデッチ奉公

③小僧と二人で「浜松支店」

④料亭の二階から芸者を投げる

ピストンリング製造に苦闘

⑥バイクからオートバイ造りへ

⑦東京に進出、初の四サイクル

⑧借り着で藍綬褒賞を受ける

⑨不況下に不眠不休で代金回収

⑩国際レースに勝ち世界一へ

⑪米国なみの研究費をつぎ込む

⑫社内にしみ渡る理論尊重の気風

 

・明治39年浜松生まれ。小学校時代から無類の機械好きだった。飛行機が来て飛んで見せるという話を聞くと学校を休んで木に登って実際に見て感激した。貧乏暮らしで金持ちの隣の家から差別されたことは幼心に刻まれた。高等小学校を卒業すると、上京して自動車修理工場を持つアート商会のデッチ小僧になった。ただ来る日も来る日も赤ん坊の子守ばかりさせられ、半年経って初めて修理の仕事に携わった。この時の感激は一生忘れられない。関東大震災で自動車運転、オートバイ散歩、修理技術を覚えた。主人に信用されて、“のれんわけ”してもらい、22歳の時、浜松でアート商会浜松支店の看板を掲げた。よその工場でなおらなくも私の工場に持ち込まれるとなおったということで評判になり、初年度で利益が出た。31歳の時、全日本自動車スピード大会に自作のレーサーを駆ってゴール寸前120キロを超えた。が横から修理中の自動車が出て来て事故に巻き込まれた。120キロは新記録だった。修理工場を閉め、東海精機株式会社を作りピストンリングの製造を始めた。鋳物の研究に取り組んだがうまくいかず、浜松高工の聴講生となって勉強した。製造にとりかかり9カ月経過してようやく製作に成功した。試験は休んだので退校を言い渡された。トヨタに納品として合格するまでに2年かかったが、自動式に改良した。プロペラのカッター式の自動削り機を考案したが、終戦となった。東海精機をトヨタに売り渡した金を元手に、織物機械を作ろうと、終戦の翌年、本田技研研究所を設立した。織機の次にモーターバイクを手掛けると、これが評判になった。エンジンを自前で作り、自転車に小型エンジンを取り付けたモーターバイクの後、オートバイ“ドリーム号”を完成させた。それからわずか十数年で従業員五千人以上、年間売上一千億円の会社に成長した。販売の藤沢専務といわれる藤沢武夫君との出会いはドリーム号が完成した昭和24年8月だった。自転車につけるエンジンを従来の重いものから軽いものにしようと研究して作ったのがカブ号のエンジンだった。小型エンジンの発明で藍綬褒賞を頂いた。46歳で最年少者だった。29年、TTレースに参加する宣言をした。現地のマン島で実際に見ると、ライバル社の気筒容量は3倍もあり、ビックリしたが、帰国後直ぐに研究部を設け、36年にはTTグランプリで優勝、最優秀賞を獲得し、世界一のオートバイを作り上げる野望を遂げた。会社経営の根本は平等にある。99%は失敗の連続だった。1%の成功が現在の私である。人の一生も功罪で評価すべきで、死んでから受ける評価が本当の私の履歴書である。(昭和48年より本田技研取締役最高顧問)