昭和55年7月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版11刷
①小学校にはいって本名知る
②二円六十銭持って大阪へ
③易者が出世のたいこ判
④人生コースの扉
⑤七円もうけてこわくなる
⑥中古エンジンブローカー
⑦大戦ブームで大もうけ
⑧“村一番の成功者”
⑨「ヤンマー」設立
⑩事故頻発、差し押え、労働争議
⑪マン社のディーゼルエンジンから
⑫世界最初の五馬力級誕生!
⑬最大のピンチを救われて
⑭憲兵護衛で銀行へ預金
⑮藍綬褒章受章まで
⑯墓もないディーゼル博士のために
⑰大十字功労勲章をうく
⑱妻とともに行く“栄光の花道”
・明治21年3月22日、滋賀県の農家の4男として生まれた。両親から「直吉」と名付けられたが、役場には「孫吉」と届けてあるのを小学校に入学して初めて知った。高等小学校卒業後、小学校時代に習い、暗記できる位まで繰り返し読んだ日本外史や十八史略、四書五経などを詰め込み、大阪に奉公に出た。18歳でガス会社の人夫となり、20歳で独立。独立して商売をしていたお陰で兵役が免除された。明治45年に山岡発動機工作所という修理工場を設立した頃は羽振りのいいエンジンブローカーになっていた。第一次世界大戦後はブローカー商売から足を洗い、軽量の石油エンジンを造り、メーカーに転身。ヤンマーの社名は、もともとはトンボ印で広告を出したところ商標問題が起き、トンボの親玉のヤンマに決めた。農業用の石油エンジンは当たったが、世界的恐慌が襲い、労働争議に巻き込まれて気晴らしに海外旅行に出掛け、その先のドイツで見た映画の中のディーゼルエンジンに憑りつかれた。帰国し、小型ディーゼルエンジンの開発に取り組み、苦労の末に完成させた。誕生したその日、昭和8年12月23日は皇太子さまご誕生と同じ日だった。瑞兆だった。資金繰りに苦しんだが、興銀神戸支店の笹山支店長に助けられた。盧溝橋事件勃発後、海軍に協力した。戦後、海軍の技術者を引き取り、成功を収めた。ディーゼルエンジン発明の親であるドイツのディーゼル博士の功績をたたえるため、昭和32年、西ドイツのビッテルバッハ公園に記念石庭苑を寄贈した。ドイツに渡り大変なもてなしをうけた。(昭和37年3月8日死去)