昭和55年6月5日1版1刷 昭和58年10月30日1版11刷
①わが家再興を念願
②社会主義にかぶれる
③日活撮影所入り
④日活争議
⑤委員長として争議解決
⑥「丹下左膳」ヒットす
⑦日活再建に努力したが
⑧「第一映画」設立
⑨新興キネマ再建
⑩情報局と必死の交渉
⑪“三社統合”に胸なでる
⑫「大日本映画会社」発足
⑬贈賄容疑で巣鴨ゆき
⑭菊池寛社長の下に
⑮総司令部で“大ラッパ”
⑯東横映画の出現
⑱吹き続かん哉! 進軍ラッパ
・明治39年1月8日京都生まれ。小学校に上がったころ、父が友人の保証をして破産の憂目を見て借家住いの境涯になる。小学校を卒業すると中学へ行かずに小僧になることを志して上京した。大倉商業に入り叔父の家でふき掃除等をした。47歳で父が急死。大倉商業を中退し、関東大震災後に京都に戻った。社会主義にかぶれ、警察に尾行され、母の家から追放された。日活の池永浩久さんと出会い、働く気になって庶務課の見習を始めた。池永さんが失脚し、従業員の首斬りが断行され、組合の委員長に選出されて会社と折衝した。都ホテルの藤村義朗社長に見込まれてカバン持ちをしてお供をした。日活で有力者が抜けた後、制作部長・企画部長・総務部長を兼務し、引抜王の名を成さしめた。「丹下左膳」で空前の大ヒットを取ったが、当時の日活の社長と喧嘩して独立し、日本映画配給という会社をつくった。が、第一映画はジリ貧状態を続けて解散した。新興キネマを引き受け、猫化けや杜の石松等がヒットした。時局柄、映画界が新体制となり、東宝系、松竹系、大映系の3社体制となった。私に贈賄の嫌疑がかけられ、警視庁に拘留されたが、最終的には無罪放免となった。新しく菊池寛を社長に招き、私は専務となった。戦後追放されたのでマッカーサーに上申すると再調査となり解除された。「羅生門」でグラン・プリを取ったが、まぐれ当たりと言われ、「地獄門」でカンヌの大賞を獲得した。(昭和46年大映解散。49年永田雅一プロダクションを設立。)