君命も受けざる所あり 私の履歴書 渡邉恒雄

2007年11月1日第1刷

 

目次

第1章 哲学青年

第2章 政治記者

第3章 確執

第4章 筆政を掌る

 

・8歳で父を病で失った。小2で新宿区中井に転居し落合第2小学校に通い、旧制開成中学、旧制東京高校を経て、昭和20年4月、東京帝国大学文学部哲学科に入学し、召集令状を受けて陸軍2等兵になり、理不尽な暴力が支配する軍隊の経験をした。昭和20年の暮れ、共産党に入党申し込みをしたが、報られる事なき献身に値する価値の理論がなく、離党届を出すと除名された。読売新聞に入社し、読売ウィークリーに配属され、天皇像、皇太子像を描くなどを手掛けた。読売ウィークリーは配属後1年半で休刊となり政治部に配属され、原稿取りの後に首相官邸配属になる。吉田茂首相の動静をひたすら追い掛けた。一目惚れした鍋島篤子と28歳で結婚した。28回目のプロポーズだった。大野伴睦担当になりオフレコで聞いた話をデスクが勝手に記事にして大野から信頼を失ったため自分が書いたことにして謝罪に行くと反対に信頼関係が出来た。小遣いをやると言われて断ると一層信頼された。三木大野会談で保守合同となり野党結束もあり55年体制がスタートした。自民党の初の総裁選では巨額の金が動いた。石橋湛山内閣が発足したが2か月の短命で後継指名を岸が受け、大野は副総裁になった。児玉誉士夫に会い、岸、大野、河野、佐藤の誓約書を見せてもらった。次の総理は自分だと言っていた大野は川島に裏切られ立候補辞退に追い込まれたが、七奉行が集まる中で大野が渡辺に尽くすと言い、取材源が一気に広がった。池田内閣が発足した。大野が急逝した後も大野派は池田支持に回り池田三選が決まるが、がん治療のため後継に佐藤が指名された。戦後の読売には社会部帝国が出来上がっていたが、社会部長以下が処分される事件があり、理由なく社会部につけ狙われることになり、ある時情報誌の発行人殺害の犯人という情報が社会部から流されたこともあった。ワシントン支局長への赴任命令が出たタイミングで佐藤首相は問題だった国有地を読売に払い下げることを決めた。佐藤批判記事を書いた私を遠ざけることで互いに矛を収める格好になった。ワシントンから呼び戻された時は閑職に追いやられた。解説部長になり2年余が過ぎた頃、中部読売問題がおき、務台社長が編集局長を更迭し、私を政治部長として迎えてくれた。その後取締役論説委員長になり氏家と揃って常務に昇任した。昭和60年に主筆を兼務し、62年に副社長に。社長学の伝授を務台社長から受けた。警視庁警務部長だった正力松太郎が5万分の読売の経営権を買い取ったのが大正13年終戦前に2百万部まで増やした。販売店網を構築したのは務台光雄だった。毎日2時間役員食道で昼食を共にした。務台追い出しを図ったM氏はリクルート事件で株を受け取っていたことが判明しM氏は新聞界から姿を消した。務台の遺言で小林が会長に、私が主筆のまま社長に選任された。