“明日”を追う 私の履歴書 宮内義彦

2014年11月17日1版1刷

 

帯封「オリックスと歩んだ50年 『日本にリースを根付かせる』たった13人で立ち上げた会社は、やがて世界にも類を見ない多角的金融サービス企業へと成長した。事業の多角化、球団買収、NY上場、規制改革への取り組み―日本経済新聞私の履歴書」をまとめた初の自伝。日経電子版「経営者ブログ」も収録。」「

 

目次

はじめに

第1部 私の履歴書オリックスと歩んだ50年(経営者として―日々ひたむき、前向きに

第2部 経営者ブログ

第1章 企業経営を語る

第2章 若者・女性に期待する

第3章 この国の未来を考える

おわりに

年譜

 

第1部

・1935年9月13日神戸市生まれ。9歳で玉音放送を聞いた。敗戦体験は人格形成に影響を及ぼした。関西学院中等部に入学。小学校の成績は1,2番の常連だったが関学生になるとビリから数えた方が早くなった。私費で2年間の米国留学。帰国後ニチメンに就職。調査部から海外統括部に異動するとサンフランシスコに行きリース業の研修を受けた。オリエント・リース設立準備事務所の旗揚げとなり、12人の男が集められ、リース業のイロハを伝授した。上場の準備を始めた。ニチメンからオリエント・リースに転籍となり、部長職の待遇となった。34歳で取締役に就任し、大証2部上場にこぎつけた。順調に名証2部、東名阪1部上場を果たし、香港、シンガポール等々、1年1社のペースで海外ネットワークを広げた。石油危機で借入が膨らみ74年には借入金残高が1千億円を超えた。社長の乾恒雄さんとは25歳差があったが、40歳の時、後継宣言を受けた。45歳で社長に就任した矢先、B型肝炎で入院。自動車、オフィス向け内装品、機械設備を計る機器、船舶や航空機のリースなど業態を拡大した。船舶の数が過剰になり船舶不況が到来したのは石油危機に続く2度目の試練だった。球団を買収し、バブル崩壊前に不動産投資に慎重姿勢に転じたお陰で何とか命脈を保った。98年にNY上場を果たし、金融分野にも進出し、オリックス生命保険オリックス証券オリックス信託銀行を設立。リーマン危機で金融市場は底が抜けるという教訓を得た。貸付業務を伸ばして成長するのは難しいと判断して新たな開拓分野に照準を定めた。規制改革の議論に加わったのは90年に発足した第三次行革審の下に「豊かなくらし部会」が発足し、委員となったのがスタート。細川さんが部会長で熊本県知事時代の経験から規制緩和論者となったが、遅々として進まなかった。95年に規制緩和小委員会が発足し、11分野1797項目の改革を実行することになり、日本IBM会長の椎名武雄さんの後任を仰せつかり、中央省庁再編と同時に発足した総合規制改革会議の議長となった。小泉首相の登場はその直後。06年10月、竹中総務相のアドバイスで電撃辞任して議長後任を日本郵船会長の草刈隆郎さんに譲った。規制改革の中でオリックス風評被害を受けた。

 

第2部

・過度な企業救済は日本にぬるま湯体質を蔓延らせる。ゾンビ企業の量産体制のままでは、日本の構造改革がなされても市場は機能しない。

・2015年4月から施行された改正学校教育法と改正国立大学法人法は、本格的な大学改革の第一歩となる画期的な法改正。学校教育法の改正で、従来「重要な事項を審議する」のが教授会の役割とされていたが、改正法で「学長に意見を述べる」のが主な役割になった。実質的な意思決定機関から諮問機関への変更。教授会の献言が狭められ、学長はリーダーシップを発揮しやすくなった。国立大学法人法では、学長が学内の多数派工作などで選ばれないようにするため選考基準や結果の公表が義務づけられた。理事会で経営方針を決め、学長が中心となって執行する、大学改革にはこうしたシンプルなガバナンスが必要で、今回の法改正はそれに道筋をつけるはず。