2023年2月21日第1刷発行
表紙裏「この困難な時代に問いかけよう。恣意的な暴力と、制度的な権力をわかつものはいったい何か? ローマ法の〈再発見〉から近代日本にいたる、法と国家の正統性をめぐって繰り返されてきた議論の歴史と、その舞台裏たる秩序創造の隘路。それでもなお、私たちが人間的な生を享受するために論じるべきことは、そこにあるのだ。」
目次
序 章 法と近代―問われるべきことは何か?
権力と暴力を分かつもの/脱‐国家化の時代の法と政治/決断主義/日本の場合
/信仰の断念から政治的解放・自由へ/繰り返される歴史に何を見るべきか?
第1章 何が法をなすのか?―正統性と歴史
第1節 立法する権力
第2節 職務のゆくえ―支配者をめぐって
第3節 自由とユートピア
第2章 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」―近代法と日本
第1節 何(誰)が自由と理性を保障するのか?
第2節 歴史の二重化
第3節 法と言葉
第3章 茶番としての危機―法と主権、そして議会制
第1節 議会制の危機?
第2節 多なる個、一なる国家―有機体から主権へ
第3節 近代日本と危機
終 章 〈無〉の主権論へ―イデオロギーの消尽の後に
「主権者教育」という倒錯―憲法改正論議の傍らで/憲法改正か、革命か?/
法が法であるために
・トマス・ホッブズ「真理がではなく、権威が法を作る」→カール・シュミットの決断主義。それとケルゼンの徹底的な相対主義を対比し、両者に間に横たわる問題、すなわち「果たして信なくして法はありうるのか、あるいは権力と暴力の峻別は可能か」という問題はいまだ解決されていないという問題提起で始まる。
・ケルゼンが語る民主制は、支配者なき秩序という理想と、理想の追求が支配者による庇護の下でのみ可能であるというパラドックスに基づいている。
・ポール・ヴァレリーは、人が「獣性=暴力性」を脱して秩序を形成するには、「フィクションの力」が必要である、という。
・主権とは何か。何者でもない〈無〉だ。主権に関する言説は、歴史的に見れば、それが一神教的な神の至高性に由来し、そしてまずはその神に教皇が、君主が、自然(自然法の「自然」だ)が、あるいは人民、国民が取って代わってきたように、主権の場所を埋めるようにして、さまざまなフィクション(犠牲)が主権の場所を〈有〉なるものとして演出してきた。それらが消費され尽くした歴史の末端にあって、結局、主権の場所が空虚だったと、つまり〈無〉だったと発見したのである(195~196p)。
・カール・シュミットは、それを決断者という主体の権能の肥大化した観念によって表現した。しかし、それは決断する主体などではなくても良いのである。ただ権力と暴力、政府と盗賊とを区別させる仕組みがあれば良い。必要なのは、区別するという分別であり、理由を問うという理性だ。主権とは、その意味において、法秩序において理性を作動させるための権能なのである(196p)。主権とは実体のあるものではなく、機能としてあるのだ(199p)。
結論を導き出すために必要最小限の引用をするならば、上記のような整理になるのではないだろうか。それにしても、学者というのは、面白いことを考えるものだ。感心する。