ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方 箱田徹

2022年12月20日第1刷発行

 

表紙「権力はあらゆる関係に遍在し、私たちの生を規定する。そうした権力が織りなす現実を耐えがたいと感じたとき、状況を批判的に捉え、いまとは違った社会を、自分を、実現する道はどこにあるのか。」

表紙裏「フーコーは時代の転換点に立ち会うなかで思索を広げた。ただし、社会や運動の要請に応えるようにして、なんらかの理論的な見通しや方針を示しはしなかった。社会を変えるために何がなされるべきか? そうした意味での理論であれば、そうしたものを提示することはなかった。そうではなしに、私たちはなぜこのような状況に置かれているのか? 私たちは何に我慢できないのか? 何を耐えがたいと感じているのか? そして、それをもたらす社会と思想のしくみやなりたちはどのようなものなのか? そうした問いを歴史と現在のなかで捉えようとしたのである。 ―「はじめに」より」

裏表紙「私たちはなぜこのような状況に置かれているのか?何に我慢がならないのか?こんなふうに統治されないためにはどうすればよいのか? 本書のおもな内容 〇権力は誘惑し、行為を促す 〇学校・会社・病院は、人を『最適化』する装置である 〇完全競争実現のため、新自由主義は社会に介入する 〇私たち『ひとり起業家』の能力向上の努力に終わりはない 〇政治とは、自他の統治が入り乱れる『ゲーム』である 〇主体には、つねに別の振る舞いをする力が備わっている 〇批判とは、『このようには統治されない技術』である 〇哲学的に生きるとは、社会を批判的に捉え、真実を言い、自分自身を変えること」

 

目次

はじめに

第1章 権力は誘惑する-権力と主体の生産

第2章 魂をどのように導くか―規律的な導きから自己と他者の統治へ

第3章 人はみな企業である-新自由主義という新たな統治性

第4章 ほんとうの生を生きる-対抗導きと集合的主体

 

・第1章は、冒頭から「権力とは関係である」「権力は話すことを促す」などとあり、何のことかと思って読み進めていたが、「パノプティコンと従属的な主体の生産」の項でフーコーが「権力」を既存の概念とは異なる捉え方をしているのだとようやく理解できた。パノプティコンにおける看守と囚人との間には眼差しをめぐる一方的な関係がある、監視される側は処罰を恐れて自分からは見えることのない監視する側の視線を内面化し規則を常に遵守するように自らを訓練する、監視する側にしてみれば最小の政治的リスクと経済コストで監視する側の内面に新たなマインドセットを作り出し規則に積極的に順応しすすんで従順に振る舞う主体が生みだされる、この見る側と見られる側のまなざしをめぐる非対称性な関係性は近代社会の特徴的な様々な場面で目にすることができる、兵舎、作業場、学校など。権力はたしかに働いているが、所有者もおらず、看守は不在でも構わない、従属的な主体は自発的な意志によって絶えず自らを馴化していく。これらの例を通して「権力の主要なはたらきとは、ある振る舞いを禁止したり抑圧したりするのではなく、個人と集団にはたらきかけて、一定の振る舞いを課したり、促したりするところにある。このとき主体は、上から抑圧されることによって形成されるのではなく、行為するよう促されることによって、下から従属的に形成される」とする。

・第2章は、規律権力のはじまりがキリスト教にあるというフーコーの議論を、司牧権力というキーワードとともに紹介し、規律とのかかわりで強調される「導き」がいわば世俗化していくことで、規律が西洋近代社会における他者の統治の大きな土台をなすことを示しつつ、この統治と導きのはじまりをめぐる考察は自己の技術と自己の統治というキリスト教の成立に先立つ枠組みへとフーコーの議論は進められた、とのまとめが端的にその内容を示している。

・第3章では、新自由主義について、完全競争が可能になるような経済秩序を実現するためには「社会の構造に、また深いところに」介入しなければならない、競争社会を成立させ、経済成長を実現させてこそ、社会の自由は確保されるとみなし、近代経済学のように「経済人」は、みずからの利益の最大化という経済的な合理性に基づいて行動する人物像とするのではなく、企業という主体、競争と生産を担う主体として捉える。

・第4章は特に難しい。導かれる側がみずからを別のかたちで導くことを「対抗導き」と名付け、「対抗導き」をキーワードにして、キリスト教に限って言えば、という限定付きではあるが、対抗導きに属する動きをくり返し取り込んで自己刷新を図ることで統治性の危機を乗り越えて自らの命脈を保ってきた、という例を挙げながら、別の統治を求める対抗導きがどのような形で生じているのかを見定めることが大きな課題であるとし、結論的な部分では、統治されたくないという耐えがたさと拒否の意志であり、みずからがいまという固有の時のただなかにいうろちう、ここから先はみずからの選択によって変わりうるという、モダンな感覚に身を置き、そこで捉えられた主観的な「真理」を経験することで、分断されたばらばらの個人であることを止めて、いまとは別の、みずからの外にある人や物事と繋がる個人という主体としてまたさまざまなスケールの集合的な主体としてみずからを構成することができる、とする。

 

やっぱり良く分からないし、まとめる力量は今の私にはない。