川口松太郎(作家)私の履歴書 文化人4

昭和58年11月2日1版1刷

 

①浅草生れの下町育ち-今だ判らぬ生母

②独立念じ伝法院横丁で露店の古本屋開く

③警察の給士に-老刑事の温情に感謝

④電信学校へ―“逓信局のお抱えさん”

⑤芝居狂時代-名人芸は文学の“宝庫”

⑥義父の死-貧乏人ゆえに医者も冷淡

⑦円玉の講談筆記手伝う-料理新聞社に

⑧吉原で泥酔バカ騒ぎ-二十日も居残り

文士劇-弁天小僧や勘平役で“名演”

⑩やまと新聞記者に-年上の女性に恋慕

⑪脚本研究会に通う-肩身の狭い思いも

⑫帝劇の脚本に当選-大衆作家の道に

 

・戸籍に島岡春吉の姉よねの私生児とあるので、母はよねで間違いないが、それがどこのどんな人なのか未だに分からない。養父母に実父母の事を聞こうとすると嫌な顔をして話したがらないので聞かずにしまった。徳川公落胤説があるが、信じていない。生まれた場所は浅草。小学校以外の学歴はない。浅草公園の伝法院横丁、どぶ板の上で古本の夜店を出した。店先で掏摸の現行犯を見つけて知り合いの老刑事に密告したのが縁で可愛がられ、警察署の給仕になった。初めて入学試験の勉強に取り組んだ電信学校の入学試験に合格し、1年ほど中央電信局にいた後、宇都宮に回された。鳩ケ谷局での勤務を最後に電信生活を打ち切り、文学放浪の生活を始めた。義父が亡くなると、義母は好きでなかったので、生まれた土地に別れを告げた。悟道県軒円玉の講談原稿の筆記の手伝いをし、三宅狐軒の料理新聞社に採用された。その後、やまと新聞へ勤め、自由劇場創始者小山内薫先生の脚本研究会に足しげく通った。帝劇に脚本が当選した時ほど昂奮したことはなかった。