昭和59年5月2日1版1刷
①信州伊那谷の生まれ
②松山鏡や瘤取りを暗唱
③中学は往復五里を徒歩で
④一橋大に落ち早大文科へ
⑤演劇研究所と“かけもち”の2年
⑥ハムレット公演、端役をもらう
⑦黙阿弥家の養子となる
⑧黙阿弥二十三回忌に伝記完成
⑨生まれて初めての大難
⑩逍遥先生を泊り込みで看病
⑪演劇博物館館長に就任
⑫歌舞伎“勧進帳”の記録映画
⑬国立劇場は明治からの懸案
⑭積もる過労で病に伏す
⑮学士院賞を受く
・明治22年6月9日長野県伊那谷生まれ。中学で泉鏡花と押川春浪に病みつきになる。早稲田英文科に入る。文壇に自然主義文学運動が起こる。二世市川左団次と小山内薫の自由劇場と、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所が同じ頃に出来た。前者は玄人俳優を素人にし、後者はズブの素人を俳優に仕立て上げようとした。卒業後、逍遥先生から黙阿弥家の養子に入るよう話をされ受けることにした。当時は「人形の家」の稽古に没頭し、日本初の小劇場を開いた。黙阿弥家は伝統歌舞伎の家だった。関東大震災後、黙阿弥全集を5年かけて刊行。演劇博物館が開館した後は解放してもらうつもりだったが、逍遥先生や田中保津早大総長から勧められて博物館の為に微力を尽くした。博物館開館から30年が経過し、日本随一、東洋に類がなく、文化財保護功労団体として表彰もされた。七世松本幸四郎の弁慶、十五世市村羽左衛門の富樫、六代目菊五郎の義経という配役の記録映画は私が推進して残したものである。国立劇場の実現にも微力を尽くした。34年に定年で早大教授と演劇博物館長を退任した。(昭和42年11月15日死去)