木下又三郎(本州製紙社長) 経済人12

昭和55年11月4日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①濃尾の自然を自在に駆け巡った腕白の頃

②勉強と運動に明け暮れた愛知一中時代

③望まれて和歌山の旧家木下家の養子に

④三高時代―失恋の痛手に耐えて猛勉強

⑤東大の機械科を終え請われて王子製紙

⑥苫小牧で技術者修業の第一歩を踏み出す

樺太へ―酷寒のなかで改良研究に没頭

大恐慌の嵐に見舞われ痛恨の“操業中止”

ツンドラの原野に人絹パルプ工場を建設

⑩新工場完成―一躍王子製紙のドル箱に

終戦の修羅場―人も工場も赤軍の手に

⑫シベリア送り―辛酸をなめた抑留生活

⑬妻子との再会―万感あふれてただ涙

⑭しり押しされて本州製紙の社長に就任

 

明治22年10月1日名古屋生まれ。家が貧乏で中学進学を諦めていたが、小学校の先生が成績が良いので愛知一中に入学させなさいと両親に勧めてくれて十倍の難関を突破して入学できた。中学ではきつい勉強と体を鍛えるスパルタ教育を受けたが、これで人間の基礎が出来たと思う。中5の時に養子の話を受け、翌年木下家の人となった。三高第二部甲類(理工)、東大機械科へと進み、王子製紙に入社した。入社前に技術者は経営者にしない方針しない方針なら入社しないと当時の社長に話をした。今思うと冷や汗が出る。苫小牧工場、本社工務部で図面引きの仕事の後、樺太に行くが、終戦まで25年間樺太に留まることになる。社宅が工場の側で故障の度に工場に駆けつけたので、工場の隅から隅までどこに何があるか手に取るように分かり、細かいことにも気づいた。折からの不況で閉鎖に追い込まれ従業員全員を整理せざるを得なくなった。2年後全員再雇用するからそれまで食い繋いでくれと涙声で説明した。日本人絹パルプ会社が出来、建設部長を命じられ、敷香というツンドラの上に工場を完成させた。その時に助けてくれたのがかつての従業員たちだった。戦後ソ連樺太を席捲した。私は理由不明のままシベリアに送られた。零下40度の中、半分位が死んだ。4年3か月ぶりに帰還船に乗って帰国した。副社長の席を用意され春日井工場を完成させ上質紙の生産で成功させた。昭和31年本州製紙の社長に就任。社の命運をかけて段ボール原紙工場を完成させた。(昭和44年、本州製紙会長。47年同相談役。52年3月8日死去)