加藤瓣三郎(協和醗酵工業会長) 経済人12

昭和55年11月4日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①故郷は出雲-自然に恵まれた幼年時代

②小学校では毎年「品行方正」の賞状受ける

③少年のこころをとらえた生命の不思議

④三高入学―「哲学の道」を第二の故郷に

⑤“人生の師”金子大栄先生との出会い

⑥醗酵専攻が縁で伏見の四方合名に入社

⑦工場長就任―工場委制度でスト知らず

満州事変のころ―酒の専売反対で奔走

陸軍省の命令で無水アルコールを製造

⑩社長に就任―再建へ社名も「協和」に

⑪画期的なグルタミン酸醗酵法の新発明

⑫社長退任―各種団体で重責を感じる

⑬仏教のこと―念仏の中で楽しく仕事

 

明治32年4月27日島根県生まれ(戸籍上は8月10日)。父から師範学校の二部に入って先生になれと言われ、尋常小学校卒業後、県立杵築中学校に入学。ところが物理化学が面白くなり大阪高工に行きたくなり、教頭に相談すると、高等学校を勧められ、三高に入学した。河上肇先生の「貧乏物語」は私に大きな影響を与えた。倉田百三の「出家とその弟子」も私に深い感銘を与えた。京都帝国大学工学部化学科に入学し三年で専門を決める時に醗酵を選んだ。生家が醤油醸造を営んでいたからだった。卒業後、しょうちゅうと味醂を製造する四方合名会社に入社(後に宝酒造株式会社となる)。帝国酒造と合併し、帝国酒造に出向した。宝酒造の市川工場長の後、協和会への転出を命じられ、宝酒造、大日本酒類醸造合同酒精の三社の経営合理化を図る仕事に就き、協和化学研究所に引っ越した。これが協和発酵工業の濫觴となった。戦後社長に就任し、社名を協和産業と改めた。公取から呼び出され、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が生まれ出た。株式公開も果たした。その後、いくつかの合成化学会社を創立・参画した。科学技術会議議員、軽工業生産技術審議会会長、試験化技術協会理事長、新技術開発事業団理事に就任した。在家仏教界の会長に就任し、社団法人に改めた際に理事長に選任された。念仏の中に仕事を楽しく遂行したい。(昭和58年8月15日死去)