倉田主税(日立製作所相談役) 経済人12

昭和55年11月4日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

①生家の製糸機械に培われた技術への夢
②試験日忘れて浪人―翌春に小倉工業へ
③小倉工業では開校以来の成績で特待生に
④再び浪人―やっとの思いで仙台高工へ
⑤帝大への吸収に反対して文相にジカ談判
⑥助川の日立鉱山で技術者生活の第一歩
⑦入営―銃砲聯隊で新兵の悲哀を味わう
⑧所長の信任受けて電線製造の責任者に
⑨銅線製造―試行錯誤の末に試作に成功
⑩生産順調―独立採算で二十年欠損なし
⑪笠戸工場時代―軍部の無理に四苦八苦
⑫「回天」設計の情報もれB29の大空襲
⑬社長に就任―戦後経済の激動期に直面
⑭大争議―命運かけて大量の人員整理
⑮日立の五十年“天下一品”の使命果たす

明治22年3月福岡県生まれ。小学校卒業後、小倉工業高校に入学し、仙台高工に進んだ。仙台高工が東北帝大工学専門部になる時、廃校を防ごうと文部大臣に面会した。10年後に東北帝大工学部から独立して再び仙台高工が誕生した。卒業後、久原鉱業所日立製作所に入社した。事務所はトタンぶき、工場は掘っ立て小屋で、えらい所へ来たと思った。結婚後、銅線製造をやれと小平所長から一言言われて全くの白紙からのスタートだったが、以後20年間電線と取り組む。工場の設計、資材の調達の準備を進めていると、久原鉱業本社から電線工事をやるので設計者を寄こせと言われて私が一員に加わることになった。ところが統治選定段階で中止になったので再びに立ちに戻って電線工場の設計に取り組んだ。試行錯誤を繰り返し、仕入れ先からの援助の申出も断って背水の陣を敷いて何とか成功に漕ぎ着けた。戦時中は軍納部長、山口の笠戸工場長を務めた。笠戸では「回天」を造った。戦後、首脳陣は追放を受け、社長に就任した。その時点で日立は4万4千の従業員を抱える中、労使問題やGHQの本社解体勧告に対応した。粘りに粘って分割案を白紙に戻した。昭和42年に会長職を退いて隠居の身となる。(昭和44年12月25日死去)