昭和47年7月25日発行 昭和53年3月5日26刷
幕府直轄郡はフランス式軍隊だったが、長州藩は蔵六により軍隊用語は全て日本語に翻訳され、日本語で軍隊を指揮運用することができるまでになっていた。この対決を極端に図式化すれば、フランス仕官と日本土着の合理主義者との間の二つの技術の対決ということになる。幕府は長州との戦いを公戦たらしめようとし、朝廷から勅許を得たので、朝敵討伐の形式をとったが、長州は幕府を東人と呼び、毛利氏・徳川氏との私闘とした。幕府の勝だけは長州に村田蔵六がいては幕軍に勝ち目がないと言った。幕軍2万に対し、7百の長州軍が長州は戦勝した原因は戦術が優れていたことと兵器の優秀さだった。蔵六は当初佐々木男也以下の各級指揮官に任せ切りにしていたが、これでは負けてしまうと考えて途中から自らが指揮を執った。敵の環の中央の大麻山を無血占領し、次は周布の紀州兵二千を討ち、隣の浜田藩は自壊した。蔵六は武士の世は終わったと思わざるを得なかった。長州は士民あげて国民戦争として祖国を守ったが、諸藩は武士だけが戦い、浜田藩は土地を捨てて逃げ去ったからだ。将軍家茂が病死し、小倉が堕ちる中、岩倉具視は中岡により討幕策を構想し坂本から新政体を啓発され、長州が幕軍に勝つことで革命構想を作り上げ、大久保利通と提携することで陰謀の段階へ入り、以降、維新史はこの通りに動いていく。藩士と百姓間に同血意識があり攘夷という民族主義がそのまま藩民族主義となったのは長州だけであり、そこに軍資金がふんだんにあり蔵六という軍事的天才を作戦の最高立案者にしたことが勝利を決定的にした。慶喜が将軍となり孝明帝が崩御した。28歳で病死した高杉は「愚を学べ」「大村を仰げ」と遺言した。蔵六はイネと再会した。イネと過ごした僅かな時間だけ充足感があったが、言葉にすることは出来ず、いつものように仏頂面で形見を渡そうとした。