花神(二) 司馬遼太郎

昭和47年6月25日発行 昭和52年3月10日26刷

 

横浜では英語の看板しか出ていないのを見て、諭吉は英語を蔵六と一緒に学ぼうとしたが蔵六は関心を示さなかった。しかしやはり英語を学ぶ必要があると感じた蔵六は原田敬作と共にヘボンに英語を習った。長州藩は蔵六が惜しくなり、幕府の教授を辞めさせ、長州に帰国させ、蔵六は博習堂を起こした。長州藩の攘夷思想は蔵六に影響を与え、諭吉は蔵六と距離を置いた。桂は蔵六に長州の青年を留学させることへの意見を聞き、蔵六は大黒屋の番頭貞次郎なら協力してくれるとして賛成した。この留学生の中に伊藤と井上がいた。京の治安が悪化する中、新撰組が成立した。京で得意絶頂だった長州は一夜で転落し京から追放された。長州は京での地位を回復しようとするが蛤御門ノ変で惨敗し、幕府は長州征伐に乗り出した。長州は穏健派が返り咲くも、奇兵隊のクーデターで再び急進派が藩政を握り、長州藩は挙藩一致で戦の準備を始め、全軍の指揮官として桂は蔵六に白羽の矢を立てた。桂に認められたことで滅多な事では高揚しない蔵六が桂のためには死んでもいいと感動した。上士に取り立てられた蔵六は名を大村益次郎永敏に改め、幕軍との対決準備に当たった。63歳でシーボルトが30年ぶりに再来日し、蔵六はイネと再会する。イネの気持ちを理解しない蔵六の言動にイネは感情的になりながらも蔵六に病理学の講義を行った。蔵六は病理学そのものは病気の治療に役に立たず、それを技術の裏打ちとして統合し理論と技術を相関させてゆく医師という人が大事だと考えていた。