2023年5月20日発行
『及ばざる人』
武器弾薬を買い集め、それを枡屋の倉庫に隠した宮部鼎蔵だったが、枡屋の古高俊太郎が捕まった。張り込みの目を逃れて、面の割れていない土肥七助を使って武器弾薬を奪い返した。宮部鼎蔵は藩医の息子として生まれ兵学師範役として長崎に何度も出向くうち欧米との格差に愕然とし国防意識に目覚める。21歳の吉田松陰が九州を旅する中で宮部を訪ね、宮部は知行合一の魂を持つ松陰の情熱に当てられ、しかし膝を叩いて喜んだ。松陰は宮部を「及ばざる人」として尊敬し、今後も交流することで大きな益があると記した。江戸に山鹿素水兵学塾の門を叩くと松陰も入門し偶然の再開を果たし互いに刺激し合った。倉庫に残された書簡から新撰組は古高を拷問し禁裏御所放火計画を白状させると、それを知らぬ桂に伝わり、寝耳に見ずの桂は宮部に詰め寄り、暴発を防ぐために意思統一を図るために志士の代表を一所に集めて寄合を持つことにした。その場が池田屋だった。それに先立ち宮部との東北旅を実行するため藩の許可が手違いで得られなかった松陰は脱藩して東北旅を決行して宮部と合流した。水戸は海防の重要性を認識しており、会津は東国随一の軍備を誇り、佐渡に渡ったところで金打して国の捨て石になることを誓い合う。弘前、竜飛岬、盛岡、郡山、仙台、米沢、日光、足利、舘林を巡り江戸に戻った。140日間の旅行だった。松陰は萩に連れ戻され、士籍剥奪・家禄没収の沙汰が下されたが、藩主は松陰の諸国遊学を許可した。東北遊歴を終えた松陰と宮部は江戸で横井小楠を訪ね「心ある国家には国交を許し、法を無視するような心ない国家は拒絶する」という「墨夷膺懲(ぼくいようちょう)策」を聞き、二人は大いに感銘を受ける。宮部と佩刀を交換した松陰はペリーと会うことが叶わず送り返された下田で捕縛され荻の野山獄で蟄居の処分となった。そこで松陰は久坂や晋作らの指導に当たった。が勅許なく日米修好通商条約を結んだ幕府老中の間部詮勝暗殺を企てたことが発覚し30歳で処刑された。渡米しアメリカに学びアメリカに抗していく松陰こそ、宮部は及ばざる人だと思っていた。清河八郎に倒幕の大義を解かれた宮部は国事に身を投じる決意を固め、上洛し実質3000の部会を率いたが8月18日政変のため地下に潜り決起のために武器弾薬備蓄の最中に古高捕縛事件と池田屋での寄合が持たれた。桂が到着すると古高奪還・決起の是非で議論が割れ、午後10時過ぎ宮部は明日また集まろうといったところで、壬生浪が押し寄せた。近藤と宮部は太刀をぶつけ合う。宮部は自らを捨て石として何人かを救おうとしていた。
著者本人のHPによると、この作品は「当初、これを表題作に据えようとしていたほど、志士というものの本質を描ききれたと自負している。拙著をすべて読み切っている八十八歳になる母が、「長編も含めた全作品中の最高傑作」と言ってくれた渾身の一篇」だそうだ。その通りだと思う。
『凛として』
目付に昇進した妻木伝蔵頼矩は、吉田稔麿を家臣に据えた。卒族の末端の出であるから物凄い昇進であるが、松陰の下で四天王の一人として頭角を現し朝暘丸事件で見事な解決でその才を発揮した稔麿は妻木公認で娘と結婚し幕臣となり長州の為に役立つ人生を送ることもできた。妻木は幕府と長州の共通の敵である外国と対峙していくのは両者が手を握るべきだというのが持論で、稔麿を介して長州と幕府の間を取り持ちこれ以上の混乱を回避する考えでいた。妻木が職を解かれた後も、稔麿に対して世子定広に嘆願書を書かせ、妻木を通じて穏健派老中板倉勝静に届けさせようとし、稔麿が江戸に向かう途中で京に立ち寄ったところ、池田屋での寄合に集まるよう声をかける役目をおった。稔麿は江戸で獄に繋がれた松陰から度々手紙をもらって奮起を促されたが、両親の為を思って松陰とは距離を置いていた。送別の宴にも稔麿一人だけ参加しなかった。翌日駕籠に乗った松陰の前に掛けだし、国事に身を捧げようが忠孝の道を歩もうがそなたはそなたらしく凛として生きよと声を掛けられる。池田屋の寄合に参加した稔麿は桂から議論が分かれたために藩邸に戻るよう言われ藩邸に戻って江戸出立の準備をしていたが、外が騒がしいために外に出ると新撰組が池田屋に御用改めで入ったと聞き、藩邸は藩邸固めのために慌ただしい。稔麿は同志を見捨てることが出来ず池田屋に向かった。稔麿は24歳の若さで死んでいった志士だった。
『英雄児』
桂小五郎改め木戸孝允は京都で買い求めた近衛邸の床に臥せっていた。長州藩京都藩邸留守居役を共に努めた乃美織江を呼び寄せ、自らの臆病な過去を死後に公にして、自らの名誉を剥奪してほしい、自分を恨んでいる乃美だからこそと思って頼む。なぜ桂小五郎という名前を木戸義孝に変えたのか。池田屋事件のとき、桂はどのような行動を取ったのか。藩邸の裏門を護る杉山松介と吉田稔麿が藩邸から一切出るなとの乃美の命令に背いて池田屋に向って行った。対馬邸で桂と合流した松介は一緒に池田屋に向おうとするが、桂は行かないという。武士を捨てたのだ。松介は一人で池田屋に向かった。松介は腕を失い藩邸に戻るが死んでしまう。桂は池田屋の集まりが悪く対馬邸にいたことにした。乃美が藩に報告したのは池田屋の窓から屋根を伝って逃げ対馬邸にいたとの内容だったために乃実の報告が間違っていたことになってしまった。すべてを書状に認めて乃実に託したが、元勲に登り詰めた桂小五郎を乃実は貶めることはできず、書状を燃やした。